HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報611号(2019年7月 1日)

教養学部報

第611号 外部公開

<時に沿って> 「問い」から始める科学研究

都筑正行

研究は「問い」から始めよ。何を当たり前のことを、と仰る方も多いかもしれないが、研究の現場では案外徹底できていないことが多い。
研究のアイデアというのは様々な角度やタイミングで舞い込んでくるため、実のところ研究は問いから始まらないことも多い。例えば、良い実験系を思いつき、新しい研究テーマ「〇〇の実験系を用いた××の解明」としてすぐさまその研究に取り掛かる、というのは、よくある光景である。しかしながらここに罠が潜んでいたりする。研究手法を限定した研究の枠組みというのは、上手く行きさえすれば良いのだが、得てして困難に直面し大きく苦労するか、頓挫することさえある。では実際のところどうするのが良いかと言えば、実際の研究計画へと落とし込む際には、思考の順番を机上で再構築する必要がある。
問いを設定した後どのように研究は立案されるか。まず問いを明らかにするための仮説(命題)を設定する必要がある。そしてその仮説を検証するための具体的な手法と、現実的な計画が付け加えられる。ここで、上述の実験系は、手法の中に位置することになる。つまりあくまで研究の立案上では一つの案として取り扱われる。
問いからスタートした研究は、長く失敗に溢れた循環としての研究プロセスにおいて研究者自身を助けてくれる。実際に研究を進めようとすると様々な困難が眼の前に現れるものだ。想定した実験系が立ち上がらなかったり、設定した仮説を上手く検証できなかったりもする。そんな時、研究者は問いに立ち返れば良い。そうすればまた新たな手法によって問いに立ち向かうことができる。良い問いからスタートした研究は、結果的に良い研究となる可能性も高くなる。良い問いを得た研究者は、一生かけて研究に一貫性を持った研究を行うこともできる。研究自体が、問いを明らかにするものであるのだから、自明である。
以上のことは、私がそれなりの時間をかけ、それなりの失敗を積み重ねて得た教訓であり、何よりも大きかったのはアメリカでの留学により、ある程度の確信を得たことである。確信というのは上記の問いから始める研究が正しい、ということだけではなく、それを支える教育システムの必要性である。日本の(と敢えて言うが)研究教育には、上記の考え方を自覚的に行うためのシステムはほぼ存在せず、学生が各々のタイミングで自発的に気づくかどうかに任されているように思える。初めから気づくことのできる学生は良いのだが、そうでない場合はどうだろうか。
しばしば日本の大学院においては科学研究と教育の両立は難しく、そのバランスとミックス具合に頭を悩ませることも多いだろう。中には、上記の内容にさえ気づかないのであれば、研究者になる資格はないと考える人もいるだろう。優秀な人材のみを教育すれば良いという考え方もあるだろう。しかしながら、それは本当に本来の教育の役割だろうか。私は教育というのはもう少し非限定的で、前向きで、大らかなものだと考えている。少しでも多くの学生に科学研究の本質と面白さを理解してもらうべく、できることをやっていきたいと思っている。

(生命環境科学/生物)

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