HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報616号(2020年2月 3日)

教養学部報

第616号 外部公開

駒場をあとに「変わる駒場、変わらない駒場」

石井直方

本郷の理学部から駒場に異動してきたのは一九九〇年の春であった。以来教員として三十年間、前期課程の学生だった二年間を加えると、三十二年間を駒場で過ごしたことになる。
駒場の理科二類に入学したのは一九七三年。改めて当時の駒場の景色を想い出してみると、今とはずいぶん異なることに気が付く。正門から眺める一号館の姿こそあまり変わっていないが、今のアドミニ棟は図書館、博物館は教務課であり、情報教育棟の場所は駐車場であった。番号の付く建物は、九号館までだったと思う。現在の21 KOMCEEの辺りには生協購買部と食堂があり、コミプラと図書館の建つ一帯は駒場寮であった。
一方、トレーニング体育館(以後トレ体)と第二体育館から北西にかけては、つい最近まで時の流れに取り残されたかのような空間であった。トレ体は、入学して初めて筋力トレーニング(以後筋トレ)を体験した場所であり、学生時代の四年間を通じ毎日のように通い詰めた場所である。教員としても、そこで多くの実習授業を行った。私にとって、トレ体は特別な存在である。
現在では第二体育館は解体され、ほぼ同じ場所に「新体育館」がその姿を現し始めている。新体育館が完成すれば、トレ体も役目を終え、五十七年にわたる歴史を閉じることになる。半世紀という時間をかけて、駒場キャンパスはメタモルフォーゼの最終局面を迎えているかのようである。寂しくもあり、嬉しくもある。
駒場の中身はどうであろうか。着任直後に訪れたのが、大学設置基準大綱化に伴う前期課程カリ改革であった。続いて大学院重点化、後期課程の改組・拡充とカリ改革、前期課程カリ改革十年後の見直し、後期課程のさらなる改編、PEAKの設置等々、絶え間のない改組変革。着任時と比べると、教育組織も、科目構成もほとんど別のものに変わってしまった。
さて、私自身はどう変わってきたのだろう。そもそも、本郷から駒場への異動が、一世一代の変身のようなものであった。当時、私は理学部動物学教室の助手で、平滑筋細胞の収縮機構を研究していた。小さな一個の平滑筋細胞をつかまえて収縮力を測定するという独自の技術を開発し、順調な研究生活を送っていた。その一方で、学生時代から始めたボディビル競技の世界選手権で入賞するなど、妙な筋肉教員でもあった。
折しも、当時の教養学部長の毛利秀雄先生から、駒場の保健体育科(当時)へ来ないかとお誘いいただいた。大学院重点化要員であった。躊躇しなかったわけではないが、筋トレによる筋肥大効果のメカニズムを研究してみたいと思っていたこともあり、お受けすることにした。再びトレ体に入り浸れることも魅力であった。
とはいえ、駒場に着任した時には、研究に必要なものは絶望的に皆無であった。なけなしの研究費で最初に購入したものがpHメータであったことが強く印象に残っている。そこから先は苦労の連続ではあったが、今となってはそのすべてが楽しい思い出である。
駒場に入学した時分は、「生命のしくみを解明したい」という大きな夢をもっていた。やがて筋トレに目覚めて、それは「筋収縮のしくみを解明したい」に変節した。挙げ句の果て体育学・運動生理学に転身し、「筋トレ効果のしくみを解明したい」となってしまった。無節操であると同時に、目標がずいぶん後退したようにも見える。
しかし、筋トレ効果は力学的環境に対する著明な生体適応である。そこで、「適応生命科学」、「運動適応論」、「適応生理科学特論」など、適応をキーワードとする科目を後期課程と大学院に設置した。これらの科目を担当するうちに、「変わらないために、変わること」が生命の本質のひとつであると教えるようになった。生命は内的恒常性を維持するために、自らを変えて環境に適応するのである。本川達男・東工大名誉教授は、近著『生きものとは何か』で、「ずっと続くようにできているのが生きものである」と論じている。世代を超えた環境への適応の積み重ねが、やがて進化へとつながるという見方をすると、氏の生命の定義は「変わらないために、変わること」をさらに包摂するものといえる。
初志としての「生命のしくみを解明したい」はおそらく変節したわけではなかった。適応という生命の本質をテーマとしてきたのであれば、駒場に入学した時と変わらぬ、大きな目標をもって研究者を生きてこられたということになろう。
三十年の間に、駒場のキャンパスも、教育組織も、科目構成も変わった。しかし、「多様な学問分野を越境することによって、単一分野では解決しきれない複雑な諸課題に挑む」という、駒場の研究・教育上の理念は、七十年前の創立時から基本的に変わっていないように思われる。これは、駒場が時代の環境にうまく適応してきた結果かもしれない。
駒場は生きている。
長い間本当にお世話になりました。ありがとうございました。

(生命環境科学/スポーツ・身体運動)

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