HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報616号(2020年2月 3日)

教養学部報

第616号 外部公開

駒場をあとに「越境するDNAと歩んだ異視考の旅」

陶山 明

「あれ、確か二列目と聞いたけど、物理の場所はどこかな?」。着席したテーブルでは、無の存在の証明で話が盛り上がっていた。二十八年前、駒場に着任後はじめての教授会での出来事である。多様性に富む駒場に足を踏み入れた瞬間であった。異なる視点で物事を考える「異視考」を大事にしている私にとって、この多様性とそれに付随する寛容性は、その後、大きな助けとなった。一方、着任早々、学部長補佐を任ぜられ、駒場の大学院重点化の仕事に関わることになったことで、多様性に富む駒場という組織の難しさにも直面することになった。
振り返って見ると、駒場での教育と研究、そして学内業務では様々なことがあった。そのような中で、越境するDNAと刺激的な異視考の旅を続けることができたのは、やはり着任したところが様々な専門分野の教員がいる駒場であったからであろう。越境するDNAの旅はまるで一つの箱からいろいろなモノが飛び出す手品のようであった。生命科学において、DNAは生命体の設計図である遺伝情報を格納する重要な分子である。その設計図を子孫に伝えるために、生命体はDNAを忠実に複製する仕組みをもっている。その仕組みを情報科学の視点から考えると、DNAで状態遷移機械をつくることができることがわかる。こうしてつくられた状態遷移機械が、いわゆるDNAコンピュータである。それは、莫大な数のDNA分子の並行して進む反応を利用した超並列計算機として、一九九〇年代半ばに誕生した。忠実なDNA複製は、相補的塩基対結合と呼ばれる特異性の高い分子認識に基づいている。この優れた分子認識機構を材料科学の視点から考えると、他の分子では実現できないような機能性材料や分子デバイスをDNAを利用して創り出せることがわかる。
このような越境するDNAの手品を楽しんだのち、再び生命科学の視点でDNAを考え直してみると、生命体自身が実はDNAコンピュータであることに気づく。そうなると、病気は生来のDNAコンピュータのプログラムを実行したときのエラーということになる。ならば、細胞の中に入れた人工的なDNAコンピュータでエラーの内容を診断して異常を直す、これが最も効果的な方法であろう。分子生物学のセントラルドグマによると、生命体はDNAとRNAを使い分けている。したがって、細胞に入れる人工的なDNAコンピュータも同じようにDNAとRNAを使い分けて動作する必要がある。こうして誕生したのがDNAとRNAを使い分ける最初のDNAコンピュータとなったRTRACS(アールトラックス)である。DNAに格納されたプログラムにより細胞内のRNAを調べて細胞の状態を診断し、細胞を目的の状態にするために必要なRNAを出力することができる。このように同じ対象を異なる分野の視点からいろいろと考えてみると、一つの分野の視点だけから考えたときには決して見つからない新しい発想や発見、そして発明が生まれる可能性が高まるといえる。
越境するDNAとの旅では、世界で最初の汎用型DNAコンピュータも開発した。ハイブリッドDNAコンピュータと名付けたこのDNAコンピュータのおかげで、思いがけない体験をすることができ、教育研究の視野が広がったように思う。ハイブリッドDNAコンピュータは、電子回路でつくられた逐次計算が得意なCPUと、DNA分子の反応でつくられた超並列計算が得意なCPUとをもつ。後者のCPUは、入出力データとしてDNAやRNAなどの分子を用いる計算も可能にする。実行するプログラムを変更すると、NP完全問題のような数学的問題を解く計算を行えるだけでなく、SNP解析や遺伝子発現解析のような、DNAやRNAの配列解析を行うこと、そしてDNAやRNAからつくられるナノスケールの機能性構造体を計算結果として出力することもできる。ハイブリッドDNAコンピュータの開発によりベンチャー企業が設立され、サイエンティフィック・アドバイザリー・ボードを兼業することになった。資本金は五億円だったのでベンチャーとはいえないかもしれない。国際的な特許紛争に巻き込まれたときは、理系分野の博士号をもつ弁護士の存在と重要性を知ることになった。また、他国の先端科学技術を調査する仕事でも博士号をもつ人が重要な役割を演じていることを知った。ハイブリッドDNAコンピュータの研究を通して、欧米では博士号を取得した後の仕事も多様であることを垣間見ることになった。
駒場での活動を通じて、多様性が大学の活力を持続するために不可欠であることを確信するに至った。しかし、多様性はまた、いろいろな点で非効率性を伴うことも事実である。したがって、効率性が重要視されがちな現代社会においては、多様性の維持は容易ではない。二律背反する両者のバランスを巧みにとりながら、駒場が今後も進化し発展して行くことを願っている。
註:写真は実年齢ではなく主観年齢を映している。異視考の旅で苦楽をともにしたDNAが胸のネクタイに一緒に写っている。

(生命環境科学/物理)

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