HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報616号(2020年2月 3日)

教養学部報

第616号 外部公開

<本の棚>品田悦一・齋藤希史 著 『「国書」の起源 ─近代日本の古典編成』

徳盛 誠

一八八〇年代、開校してまだ日の浅い東京大学に、日本古典のみ、または中国古典のみを学ぶ特別コースが存在した。文学部附属の古典講習科である。ただし帝国大学としての改編にともない、二期八十七名の卒業生を出しただけでわずか六年で廃止─。近代的大学の確立への紆余曲折の一齣と片付けられそうなこの一件に、著者品田、齋藤両氏は近代日本における古典と古典学の変容の現われをみてとって、その短い歴史が示したものを、講習科の二つの分科国書課、漢書課のそれぞれに即して掘り起こしていく。本書第一章「国学と国文学」第二章「漢学の岐路」である。
聞こえてくるのは意外にも、古典と古典を学ぶことの社会的、職業的実用性を訴え、学の継承をもとめる当時の古典学者の声だ。改革刷新が席巻する社会状況にあって、見失われた古典の権威やそれを支える理念の復権を主張しそうだが、実際はそうではない。むしろ彼らは新たな社会を支える文に着目し、文を創る力の涵養を目的とした和漢の古典学の意義を提示している。大学発のそうした訴えが、折しも一八八一(明治十四)年、憲法に基づく国家体制に向けて舵を切り、その準備を急務とする明治政府の人材の需要と合致したのではないか、というのが古典講習科誕生をめぐる本書の新説である。なお考察の中心をなした本学所蔵の資料群はその影印が本書に附載され、読者自身による検証に開かれている。
第三章以降は両氏の論考が二つずつ並ぶ。それらは独立した考察として、ゆるやかな連関の下、各々がユニークな論点を鋭くうがっている。その連なりは古典講習科をめぐる検証と呼応しながら、この時代の日本に起こった多元的、多義的な近代的変容を浮かび上がらせる。本書のもう一つの特徴である。したがって本書からは多様な問題を引き出せるのであって、本書の題名「「国書」の起源」もその一つである。ただしその引き出し方は「はじめに」で明快に示されているので、ここでは私が感受したものを一例として記しておこう。
第五章「国家の文体」は、古代以来の日本語の文体の変遷を驚くほどの明晰さと簡潔さでふりかえり、明治以降、漢文訓読に範をとった漢字片仮名交りの訓読体が、天皇の詔勅を頂点とする公文書の文体として確立した歴史的プロセスを明らかにする。この論考から、さきの古典学者による古典学習の実用性の主張、政府側が訓読文を自在に操る人材を求めることのどちらもごく現実的なものであったこと、つまり右に挙げた新説の前提の一面が納得される。
さらに興味深かったのは、本書を通して多様に描かれる理念と実用性の関係である。
固有の権威や理念を放擲することによって実用化したかにみえる日本古典の学としての国学は、それゆえに時の政府による、帝国憲法や国体が掲げる新たな権威や理念の根拠づけの要請に応えることができた(第一章)。他方、第四章「国民文学史の編纂」が描き出すのは、「文学」という理念を掲げる者が新たに登場した時、「文」の学としての国学はその思想的空疎さを露わにされたということだ。その人物、芳賀矢一が古典講習科廃止後の文科大学国文学科の卒業生というのも意義深い。
「離れ業」とも評される論理構成に諸作品を組み込み、文学史を構築することで、日本文学という固有の価値を確信するのが芳賀の試みだったとすれば、漢文にかかわる事例として、時代は遡るが、第三章「漢文とアジア」が精細に論じる岡本監輔という人物の試みが面白い。清国を長く旅し、筆談による交流を通して漢文の実用性を肌で感じて、のち漢文新聞を通じた海外への情報発信など多彩な活動を展開する。視野を広げ、東アジアに目を向けることで、漢文の実用・共有そのものから、西洋に対抗するアジアの連携という理念が新たに生み出されるのである。
最終第六章「『万葉集』の近代」は、古典の近代的変容の鮮明なケーススタディである。『万葉集』という作品が、「国詩」「国民歌集」といった概念に即していわば実用化されてきた過程、それは現代に至りついていることが示される。そのありようへの著者の強い批判は、それによって作品そのものと向き合う新たな地平を創り出そうとする試みでもある。
古典について、日本の近代について、読みやすい文体で清新な問題を提起する一書である。

(超域文化科学/留学生相談室)

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