HOME総合情報概要・基本データ研究科長・学部長挨拶令和3年度 入学式 教養学部長式辞(令和3年4月12日)

令和3年度 入学式 教養学部長式辞(令和3年4月12日)

 東京大学入学者のみなさん。ご入学おめでとうございます。本日ご列席はいただけませんでしたが、入学者のご家族のみなさまにも併せてお祝いを申し上げます。教養学部長の森山工です。

 唐突ですが、みなさんはアウレリウス・アウグスティヌスという名前をご存知でしょうか。キリスト教の教父としてローマ帝国時代の4世紀後半から5世紀前半を生きた人です。カトリック教会その他で「聖人」として認められており、聖アウグスティヌスとも呼ばれます。

 アウグスティヌスは、神学者、哲学者として後世に多くの著作を残しました。その一つに「問答集」があります。83におよぶ問いに対して、一つずつアウグスティヌスが答えを返しているものです。そのなかに、次のような問いがあります。

  神が万物を創りたもうたのであれば、どうして神は万物を同じに創られなかったのか。

 この問いに対するアウグスティヌスの答えはこうです。

  もし万物が同じであったならば、万物は存在しないであろうからである。

 アウグスティヌスがいっているのはこういうことです。もし万物が同じであったなら、万物は存在しないことになってしまう。万物が同じであったなら、存在そのものが意味を失うことになる。存在が意味をもつためには、世界をかたちづくる事物の多様性が必要である。

 ここは、キリスト教の教義やその解釈について語る場ではありません。しかし、この答えには重要な思想があらわれています。この世界に存在するさまざまな事物、そのなかにはもちろん人間も含まれるわけですが、そうしたさまざまな事物は、一つとして同じではない。けれどもそれは偶然ではない、という思想です。すべてが同じであったとしたなら、事物の存在そのものが無意味となってしまうという思想です。だから、存在が存在としてあるためには、事物は多様でなければならないし、現に多様であるという思想です。

 世界は万物が多様であるように秩序づけられているという思想。ここからわたしたちは学ぶべきではないでしょうか。もし万物が多様であるとすれば、わたしたちには万物のその多様性をそれとして認識することが必要になるからです。

 わたしたちが現在生きているこの世界においては、しばしば多様性を同質性へと単純に還元しようとする動きが見られます。たとえば、個人は人間としてみな同じであるという考え方があります。「人間性」という考え方です。もちろん、「人間性」という「同質性」を認知することは必要でありましょう。「人間」としての「人権」や「平等」を保障する上でも。けれども、すべてが同じであったとしたならすべては存在しないことになってしまうという思想に照らして考えるなら、すべての個人を「人間性」という「同質性」に一元的に還元してしまうかぎり、個人は人間としての存在の意味を失うことになってしまうでしょう。だから、「人間性」という「同質性」を認める一方で、それにもかかわらず、諸個人は「多様である」ということを認めることが必要になるのです。

 多様性ということを考えるときに、わたしたちが注意しなくてはならないことがあります。それは、漠然と、あるいは漫然と、「多様性」と唱えているだけでは何も議論が進まないということです。「多様性」とは「何についての」多様性であるのか、これをつねにみずからに問いかけることが重要であるということです。

 たとえば、受験競争を勝ち抜いてきたみなさんにとっておそらく現実味があるのは、「学力についての」多様性でありましょう。多様な学力をもつ中等教育修了者のなかから、みなさんは「秀でた」学力をもつ人として東京大学の選抜試験に合格されました。けれども、そのみなさんにしても、「東大生」として「同質の」学力をもつわけではありません。みなさんのなかには、たとえば数学に秀でた適性や能力をもつかたもおられるでしょうし、そうでないかたもおられるでしょう。あるいはみなさんのなかには、語学に秀でた適性や能力をもつかたもおられるでしょうし、そうでないかたもおられるでしょう。

 学力についての多様性が、「東大生」というレッテルのもとに「同質性」に一元的に還元されようとするときこそ注意が必要なのです。その同質性にみずからを預けるのではなく、一見すると同質と見えるものたちのなかにも、「何についての」多様性かという論点を挿入するだけで、さまざまな「多様性」があらわれてくるからです。「数学力についての」多様性であるとか。「語学力についての」多様性であるとか。

 こうした学力についての多様性は、大学という高等教育機関にあって、まさに教育の場においてそれとして認知すべき課題です。教養学部では、こうした学術分野に関する適性や能力の多様性をさまざまなかたちで認知し、それを教育の場に積極的に活かす取り組みをおこなっています。理系の素養を大学での学修の早期から伸ばそうとする「アドバンスト理科」という科目群があります。同様に、「アドバンスト文科」があり、「アドバンスト文理融合」があります。語学の素養をもつ学生を念頭に、その語学力を早期から鍛えようとする「トライリンガル・プログラム」があります。また、東京大学全学としては、国際的な活躍の場を求める学生のために「グローバル・リーダーシップ・プログラム」があります。世界の多様な人々と共生し、ともに働く力を養うために「国際総合力認定制度」があります。

 けれども、多様性は何も「学力についての」多様性だけではありません。たとえば、学部学生における「男女比率についての」多様性はどうでしょうか。学部学生における女性学生の比率は20%程度であり、この数字だけから見るかぎり、男性学生への「同質性」のほうに大きく傾いています。けれども、だからといって少数者である女性学生を無視して大学生活が成り立つはずもありません。同じことは、「性自認や性的指向についての」多様性にもあてはまります。「障がいの有無についての」多様性にもあてはまります。「国籍や出身地域についての」多様性にもあてはまります。「生まれ育った言語や文化についての」多様性にもあてはまります。「信仰する宗教についての」多様性、これは無宗教であることも含めた多様性ですが、にもあてはまります。いずれにおいても、少数者を無視し、多数者に「同質化」する力学を働かせることは、多様性をそれとして認知することにはつながりません。

 そのように見るならば、多様性というのはいくつもの論点「について」見いだすことができるはずです。翻ってみれば、同質性についても、それが「何についての」同質性であるのかを明確化することが必要なのです。究極的にいうならば、学生のみなさん一人ひとりが他の学生との関係において、同質な面とともに、異質な面をもっているのです。だから、同質だとすれば、それは「何について」同質であり、異質だとすれば、それは「何について」異質であるのかを、その都度明らかにしなくてはならないのです。

 このように、みなさんは、そのそれぞれがそれぞれに対して、部分的に同質であると同時に、部分的に異質であるものとして存在しています。別の言い方をすれば、みなさんは、そのそれぞれがそれぞれに対して、部分的に重なり合い、部分的にはみ出し合うものとして存在しています。これは、みなさんが相互に、「部分的につながり合うものとして」存在しているということを意味しているのではないでしょうか。同質的に重なり合うところで少しつながり合い、異質的にはみ出し合うところで少しつながり合いといった具合に。完全に同質なわけではありません。完全に同質であったなら、アウグスティヌスがいったように、存在しないことになってしまうでしょうから。その一方で、完全に異質なわけでもありません。完全に異質であったなら、相互的なコミュニケーションは不可能になってしまうでしょうから。同質性を認めながらも、同質性に全員を一元的に還元するのではなく、異質なものの多様性をそれとして認める上では、この「部分的なつながり」という考え方が重要であると思います。

 そして、この考え方が意味をもつのは、みなさんの一人ひとりと、みなさんの周囲の身近な人々とのあいだにおいてばかりではないのです。みなさんにとって遠いところにいる人々とのあいだにおいてもそうです。世界のどこか見知らぬ地域の、さまざまな境遇にある見知らぬ人々とも「部分的につながっている」と想像してみてください。そのような想像力を、みなさんのうちに活性化させてください。多様性と同質性をともに含み込みながら、部分的につながり合っている人々という観念をみずからのものとしてください。そうすれば、みなさんは、他者に対して、その他者は身近な他者であっても、世界の遠いところ、あるいは遠い時代に生きる他者であってもよいのですが、その他者に対して、「無知」でいることも、「無関心」でいることもできる。けれども、「無関係」でいることはできない、ということに思いをいたすことでしょう。

 教養学部は、みなさんの「無知」についてはそれを「知」にかえ、みなさんの「無関心」についてはそれを「関心」にかえるよういざないます。しかし、教養学部でそうして学びを深める一方で、自分が他者と「無関係」ではないのだということ、部分的につながり合っているのだということ、このことはしっかりと自覚しておいていただきたいと思います。自分と部分的につながり合っているものとして他者を思い描くこと。そのような想像力を、みなさんがそれぞれに働かせること。それが、教養学部における学びにおいて重要であるということを申し上げます。

 教養学部長としては、オンライン授業のあり方や対面授業のあり方などについていうべきこともあったかもしれません。オンライン形式であれ対面形式であれ、教養学部はみなさんの学びを可能なかぎり深めることを目指します。しかし、授業の形式の如何ではなく、何よりもみなさんの一人ひとりがみずから「考える」ということが重要なのです。しかも、「想像力」を働かせながら考えるということが。そのような学びをみなさんが教養学部で深められることを願って、教養学部長としてのわたしの式辞といたします。

東京大学教養学部長 森山 工

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