HOME総合情報概要・基本データ研究科長・学部長挨拶令和元年度 教養学部学位記伝達式 教養学部長式辞(令和2年3月24日)

令和元年度 教養学部学位記伝達式  教養学部長式辞(令和2年3月24日)

皆さん、本日はご卒業まことにおめでとうございます。教養学部後期課程を構成する教養学科、学際科学科、統合自然科学科をご卒業される皆様に対し、教養学部を代表して心からお祝い申し上げます。

今年はCOVID-19新型肺炎の感染拡大により、残念ながら卒業式は縮小開催となってしまい、多くの皆様が式に出席できない状況について、誠に申し訳なく思います。世の中にはこのような人の力では解決が困難な不条理なことが沢山あります。卒業すると、社会でそのような不条理なことと、否応なく向き合っていく必要があります。今回は全くもって不条理な事態となりましたが、この経験も皆さんの将来にとって是非良い形で活かしてほしいと思います。

今年の卒業式は大変残念なものとなってしまいましたが、それでも皆さんは令和最初の卒業生、しかも教養学部70周年の記念すべき卒業生でもあります。社会に出ると、「あなたは何年のご卒業ですか?」と聞かれることがしばしばあります。私は物覚えが悪いので、時々即答できずに困ることがあります。せめてもの慰めにしかなりませんが、皆さんはいろいろな出来事があったこともあり、卒業年を思い出しやすい点では群を抜いているかもしれません。

学部長として私は、教養学部のリベラルアーツ教育を4年間受けた皆さんを誇りに思います。教養学部はリベラルアーツ教育を標榜しており、これを4年間かけて学んでいける本学では唯一の学部です。その過程で人間としての真の自由、つまり多様な価値観への理解、既存の枠に捕らわれない自由な発想、何かに頼らず自分で考え批判できる力、他者へ貢献する姿勢、そして人生における志を培ってこられたのではないかと思います。

さて、卒業の日に少し「教養」について復習してみましょう。お題は「始まりと終わり」です。今日は皆さんにとって、大学生活の終わりを迎える日です。この終わりについて、英国の詩人トマス・スターンズ・エリオットはこう言っています。

"What we call the beginning is often the end. And to make an end is to make a beginning. The end is where we start from." (T. S. Eliot, "Little Gidding" in "Four Quartets")

訳しますと、

「始まりと言われるものは、しばしば終わりでもある。そして終えるということは、始めるということでもある。終わりとはつまり、出発点である。」と言っています。

なんでしょうかね、禅問答みたいで、よくわかりませんね。何がいいたいのでしょうか。

単純に考えますと、「何かを終えるときは実は何かを始めるときでもある」ということではないでしょうか。昨年、平成が終わりましたが、令和時代が始まりました。皆さんも今日大学生活を終えますが、次には大学院生活や社会人生活が始まります。まさに卒業式を迎える皆さんの今日の状況を言い表しているような気がします。

「始まりが終わりである」というのは何が言いたいのでしょうか。始まりがあれば終わりがあるということかもしれません。お年寄りの思い出話のように、同じ話が終わったと思いきや、また最初から繰り返し続くようなこともあるかもしれません。まあ、それでも我慢して聞いていれば、いずれは終わります。先頃、アルベール・カミュの「ペスト」を引用した教養学部長からのお知らせを書きました。その中でも述べたのですが、今は収束の目処も立たない新型コロナウイルスの感染拡大も、いずれは終わるときが来ます。その時は、平和で健康な日常が訪れたことで、皆さん喜びに溢れるでしょう。

私は教養学部長をしていますが、この職は困難な案件がとても多く、忙しくてつらい職です。ここだけの話ですが、任期が始まると同時にあと何日で終わるか数え始めました。そのような中、新型コロナウイルスの対応という仕事が加わりました。4月からミッション・インポッシブルともいうべき「オンライン授業」も開始することになり、その準備や対応も本当に辛いものがあります。しかし、皆さんも不条理なこと、辛いことが始まっても、いつかは終わると考えてみて下さい。物事には必ず終わりがある、私は辛いときにそう考えるようにしています。

さきほど、教養を身につけるというのは、既存の枠に捕らわれない自由な発想、何かに頼らず自分で考え批判できる力を身につけることだと述べました。ですので、正攻法的に捉えるのではなく、もう少し批判的にこの詩を読んでみることにしましょう。「終わりが始まりになる」ということなのですが、事を終えても次のことを始められる人ばかりではありません。教養学部を卒業したあとで、何かが始まる。そういう順調な人生を歩む人もいるでしょうし、卒業後まだ進路が決まっていないという人だっているでしょう。もっと極論すると、死んでしまったら、幽霊にでもならない限り次に何かを始めることはできないわけです。

逆の「始まりが終わりになる」も必ずしも真とは言えません。何かを終えずに別のことを始める人もいるでしょう。実際、大学の教育プログラムなどは一度スタートすると廃止しにくいですから、終わりがなく新しいことが追加され、教員がますます疲弊するという状況が散見されます。こんな風に批判的に詩を読んでみると、この詩を先ほどの単純な解釈だけで捉えてはいけないように思います。

では、さらにもう一歩踏み込んで考えてみましょう。例えば誰かが死んでしまったとして、それは本当に終わりだけなのでしょうか。たとえある人が死んでしまっても、その人の思想や活動に影響を受けた人がいれば、何かが後世に受け継がれます。吉田松陰が死んでも、松下村塾で松蔭に学んだ弟子たちが明治維新を起こしました。後世の人々が受け継ぐ何かは、死んだ当人が思い描いていたこととは、少し異なっているかもしれませんが、それが却って世界や時代の変化を生み出していきます。このような一連の継承と変化のサイクルが連続することにより、人類社会は少しずつ前進してきたのだと思います。

私は生物学を研究しているのですが、生物の進化も遺伝情報の多様化と継承、選択という、反復可能なサイクルが続いているが故に成立しています。あくまでも個人的な見解ですが、思想家であるジャック・デリダなども、反復可能な過程で生じていく「差延」であるとか、「散種」などという概念を通じて、人間社会に同様なことが起きていると語っているように思います。(こうやって文理を越えて心理を考察できるのが、駒場の楽しさの一つです。)

何も次世代への継承といった長い時間軸で考えなくてもよいと思います。若いときに見える世界というのは、富士山の麓の樹海から眺めた景色や青空のようなものです。本当に一部のことだけが見えていて、世界を俯瞰的に見るだけの経験や知識に至っていません。それでも、皆さんが年を取って、ある年代に考えた世界観が終わりを迎えたとしても、それは次の世界観の土台となり、始まりともなっているのです。

こう考えてみると「終わりは始まり」ということは、より高いレベルで成立しているように思えます。皆さん一人一人の存在も、そのような再帰的なサイクルの中にあります。皆さん一人一人はそれぞれ誰にも同一化されない多元的な存在として人生を歩んでいくのですが、その活動が将来の皆さん自身や後世の人々にも何らかの形で受け継がれていく。そんな壮大な流れの中に、これからの皆さんは歩みを進めていくのだということを認識してほしいと思います。

ですから、教養学部を卒業はしたけれども、私が冒頭で述べたようなレベルにはとても達していない、と思った人も安心して下さって大丈夫です。卒業のこの時に、完璧に備えていることはできませんし、そもそも完璧なものなどないのです。皆さんの心には、今は認知できないかもしれませんが、かすかな教養の灯火がともっていますから、その灯火を頼りに生涯をかけて皆さんそれぞれの教養を育んで頂きたいと思います。

そして、皆様一人一人が生きてきた痕跡をこの世界に残して欲しいです。もちろん「稀代の悪人」としてではありません。皆さんの後に続く人々の幸福に結び付く「ギフトとしての痕跡」です。私はそのような贈与の連続によって、この世界が問題を抱えながらもよい方向に発展していくことを願っています。できるだけ楽をして、コストパフォーマンス良く、豊かに自分の生涯を過ごしたい、人間ですからそう考えることは否定しません。しかし、どうか大きな志をもって、皆さんの能力を必要としている他者のためにも、何らかの形で力を貸して欲しいと思います。教養学部で学んだ皆さんには、それだけのパワーが与えられていると信じています。

最後になりましたが、皆さんの今後の活躍を心から祈念いたしまして、私からのお祝いの言葉といたします。本日は誠におめでとうございます。


2020年3月24日

東京大学教養学部長 太田 邦史

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