森山 工

学部長からのメッセージ

「越境する知性」。このパンフレットにはこう謳われています。知性が「境」を「越えて」広がるということ。知性がその「境」のこちら側とあちら側とを俯瞰して視野に収めるということ。そして、可能であれば、知性がその両側を統合するということ。もちろんこのような発想は、リベラルアーツを前期課程から後期課程に発展的に引き継いだ教養学部後期課程の教育理念・研究理念に合致したものです。

けれども翻ってみれば、この発想は、すなわち「越境」という発想は、そもそも「境」があることを前提としています。その「境」とは、では、何と何とのあいだの「境」なのでしょうか。

少し考えてみれば分かるとおり、「越境」というときの「境」は、じつはそれ自体として一元的ではありません。ある言語から別の言語への越境があります。ある地域から別の地域への越境があります。ある学術分野(ディシプリン。たとえば数理科学)から、別の学術分野(たとえば社会学)への越境があります。ある学術的手法(たとえば文献研究)から、別の学術的手法(たとえばフィールドワーク)への越境があります。ある学術的な推論作法(「演繹」と「帰納」に依拠した「仮説検証」)から、別の学術的な推論作法(「アブダクション」に依拠した「仮説発想」)への越境があります。

だから、安易に「越境」というのを「決めことば」に使わないようにしましょう。そもそも「越えてみて」はじめてそこに「境」があったと気づく(後付け的に自覚化される)ような「境」だってあるのですから。「越境」という運動は、そこにその都度「境」を見いだす運動にほかなりません。そこに「境」があるから、いいかえれば運動以前に「境」が自存しているから、だからそれを「越える」のだ、という単純かつナイーヴな物言いだけがまかりとおるわけではないのです。「境」それ自体が多層的かつ多元的なのですから。だから、知性がそれを「越えて」ゆく、すなわち「越境」する仕方も多様でありうるし、実際に多様であるのです。

教養学部後期課程においては、このパンフレットに紹介されているとおり、文系・理系・文理融合にまたがる三つの学科があり、その下にいくつもの分科やコースが設置されています。それらの分科やコースが、そこに所属する学生みずからが「越境」を試みるための足場となることはいうまでもありません。けれども、教養学部後期課程においては、学科にしろ分科にしろコースにしろ、そうした教育研究単位それ自体が知性の「越境」の産物であることが多々あります。知性の「越境」という絶えざる運動の、いわば暫定的な結論としてあるのが、教養学部後期課程の制度的な枠組みであるのです。そこには、みなさんが、大胆に、かつチャレンジングにみずからの視野と関心の領域を広げてゆく環境が整えられています。「越境する知性」、それを実践するのは、みなさん一人ひとりなのです。

総合文化研究科・教養学部長
森山 工