HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報536号(2011年2月 2日)

教養学部報

第536号 外部公開

教養としての「生物多様性」 

吉田丈人

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国際生物多様性年のロゴ
"Biodiversity is Life, Biodiversity is Our Life"という言葉のもと、2010年は国際生物多様性年であり、生物多様性の大切さを知る年であった。残念ながら「生物多様性」という言葉は、一般市民に広く知れわたっているわけではない。2009年に内閣府が行った調査によると、生物多様性という言葉を一度も聞いたことがないという日本人は、なんと六割もいる。たとえ教育の進んだ他の国でも、少なくとも五割ほどの市民は生物多様性という言葉を一度も聞いたことがないという。生物多様性の保全がいかに重要な社会目標であったとしても、一般市民によく理解されていないものに、社会が一体となって取り組むことは不可能に思える。

国際生物多様性年は、生物多様性という概念を広く各国の一般市民に知ってもらうことが一つの目標であった。日本では、昨年十月に生物多様性条約の第十回締約国会議(COP10)が開催され、生物多様性が広くメディア等で取り上げられたために、今まで以上に一般市民に知られることになっただろう。しかし、生物多様性の意味は何かと聞かれて、その意味を説明できる人は数少ないかもしれない。

生物多様性とは、地球上の生物と、生物のつながり(関係性)のすべてであり、人類の営みを支える基盤をもたらしている。環境や生態系という言葉は生物多様性よりもよく知られているかもしれないが、生物多様性はより大きな概念であり、地球上の環境や生態系が多様な生物の存在によって成り立っていることを含んでいる。あまりに大きな概念であるために、生物多様性を一つの尺度で評価することはほとんど不可能だと思われる。

生物多様性には、遺伝子・機能・種・生態系といった異なる階層があるだけでなく、種類の豊富さ・均等性・性質の違い・冗長性・栄養段階間の複雑さなどといった異なる尺度が存在するためである。したがって、生物多様性を表現しようとすると、上述のような、直感的にはわかりそうであるが、科学的にはとらえにくい概念となる。しかし、その複雑性そのものが生物多様性であり、人間の多様な営みを支えているのである。

人間の福利(human well-being)は、生物多様性がもたらす生態系サービスに大きく依存しており、生態系サービスなしには人間社会は成り立たない。食料・木材・薬などのいわゆる自然の恵みは「供給サービス」と言われるほか、水の浄化・洪水の抑制・大気組成の調節などは「調節サービス」、自然美・景観・自然にまつわる祭礼などの「文化サービス」が生態系サービスに含まれる。これらのサービスの基盤を支える物質生産・物質の循環などは「基盤サービス」と呼ばれる。

人間の生物多様性への影響は、生態系の変化を通して生態系サービスを改変させ、それはさらに人間社会へとフィードバックする。人間社会の存在を基盤から支える生態系サービスを、将来の世代にわたって持続的に利用することは、現代を生きる私達の世代に課せられた重い責任である。生態系サービスをつくりだす生物多様性は、未来の世代からのあずかりものであり、その価値を損なうことなく次世代に受け継がなければならない。しかし、生物多様性は、人間の影響を受けて急激に劣化しつつある。

自然の絶滅速度の百倍から千倍とも言われる速度で生物は絶滅しつつあり、絶滅危機にある生物が近い将来に本当に絶滅すれば、その絶滅速度はかつて地球上で経験されたことのないほどの速さに達すると予測されている。2002年にオランダ・ハーグで開催された生物多様性条約の第6回締約国会議では、生物多様性損失の危機が認識され、2010年までに生物多様性の損失速度を顕著に減少させるという目標が立てられた。しかし、その2010年に生物多様性条約事務局は、この2010年目標が達成できなかったという現実を認めている。それを受けて開催された名古屋でのCOP10では、2020年までに達成されるべきより具体的な目標を定め、2050年には自然と共生する社会を実現するという長期目標などが立てられた。

最初にあげた、生物多様性は生き物すべてであり、生物多様性は私達人間の生活そのものであるという言葉は、持続可能な社会の実現には生物多様性の保全が不可欠であることを意味している。生物多様性は、もはや自然好きの人だけのものではなく、都市にすむ多くの人や、生態系サービスに依存しているビジネス、手入れが行き届かなくなりつつある田舎の集落など、すべての人・社会にとって重要なものと認識されつつある。

生物多様性の保全が重要な社会目標であったとしても、「生物多様性」という言葉とそれがもつ重要な意味が広く国民に理解されない限りは、その目標に向かって社会全体で努力することは難しい。生物多様性は、これからの社会を生きる人間にとって大切な「教養」の一つであり、生物多様性の教養がより広く一般社会に根付くことが求められている。

2010年は国際生物多様性年であったが、名古屋で共有された2020年への目標が達成されるために、2011年から2020年は「国連生物多様性の十年(UN decade of biodiversity)」と国連で2010年12月に定められた。筆者は、12月半ばに石川県金沢市で開催された、国際生物多様性年のクロージング式典や、学術会議が主催の「持続可能な社会のための科学と技術に関する国際会議:生物多様性の保全と持続可能な利用」に参加して、知のリーダーたる責任がある東京大学においては先んじて、すべての学生と教職員が「生物多様性」を知る大切さを強く感じた。生物多様性の保全なくして未来の社会は存在しないという予測は、ビジネスにしろ学術にしろ、人間社会がこれから進む方向に強く影響するだろう。

(広域システム科学系/生物)

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