HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報543号(2011年12月 7日)

教養学部報

第543号 外部公開

<駒場をあとに> きれぎれの感想――感謝とともに

湯浅博雄

ある時間が流れて、駒場に暇乞いをする時がきた。たぶん一九八五年の四月からお邪魔しているので、 今年度の三月で二十七年間務めさせていただいたことになる。この間、多くの学生(卒業生)のみなさんといっしょに教室でフランス語の学習をしたり、文学・ 思想テクストを読んだり、覚束ない講義を聴いてもらったりしたことに、まず感謝の気持ちを表明したい。テクストを読むという行為は、ひとりの読み方だけで はどうしても不充足な部分があるのであって、必ず他の読み方、異なる読解によって反駁され、補足されなければならない(もちろん、いくら補足されても、そ れで完全な読み方になるというわけではなく、それこそ本質的なテクストのあかしである。

また、それが書かれたとき既に他なるものの痕跡を含み、つねに他への転送の動きを秘めているテクストの必然でもある)。
テクストを読むことにおいては、筆者は学生よりもやや長い人生経験をもち、少し長くテクストに親しんできたというだけであり、先人の教えと自らの経験か ら学んだ読解の積み重ねのおかげで、いくぶんかテクストそのものに即した読み方に慣れているという以外とくに長所はない。この位置づけは、筆者が不勉強 で、能力不足だからというよりも、読むたびに新しい意味をもたらすテクストを前にして、だれもがそういうポジションにおかれるからである。筆者は自分なり にテクストそのものに誠実に即した読み方を実践してきたつもりではあるが、しかし駒場生のみなさんは、驚くほど鋭い読み方を提示してくれることがよくあっ た。そういう経験は、この大学以外のところでは多くはないことであり、ほんとうにありがたいことであった。

以上述べたことは、むろんレヴェルや位相は大きく異なるとはいえ、駒場の教職員のみなさまへの感謝の念にもつながると信じる。困難を前に逡巡したり、交 叉路で迷っていたりしていたとき、多くの同僚のみなさまの導きや談話や言説のおかげで思いがけない方向性、見方、展望を与えられ、一歩踏み出すことが可能 になったという経験は少なくない。このことも他所ではあまりないことであり、実にありがたいことだった。

春の梅、桜、初夏の樹々の新芽や躑躅、秋の銀杏の黄葉。駒場の自然はつねにかわらず美しい。かつて六七年四月に筆者が駒場に入学したころは、旧制一高の 面影を伝える建物がかなり残っていたが、一号館や九百番教室などを除いて、ほぼなくなってしまった。筆者が初めて授業を受けた旧二号館も取り壊され、新二 号館や十二号館などになっている。耐震性を高め、改築された八号館が、以前、第八本館と呼ばれていたころ、屋上に出て、旧駒場寮の方向を眺めたことがあっ た。

北寮前に多くの立看板が並んでいて、「迫り来る危機」を政治的な革命によってのり超えるよう訴える言葉が書かれていた。筆者には政治的変革によってなに かが変わる面は(たしかにあるにちがいないが)限定的なものであり、「世界を変える」ということは「生を変える」という試みに根ざすことで初めてなにごと かを意味するように思われたので、一部の友人たちとはちがって活動に没入することはなかった。しかし、時代の大きなうねりのなかで、ジュニアの学生として 「長居をした」三年半は討論や議論やデモが多くの部分を占めることになった。

それと同時にさまざまな文学書、思想書、学術書を読んだが、そのときの筆者にとっては、討論も行動も読書も、なにをなすべきか、どう生きるべきかという 問いと異なるものではなかった。読書と生き方は一体であるように思えた。こうした体験に即して発せられた問い。いくつかの偶然に伴われつつ不可避的に遭遇 したもの。名状しがたい塊のように呑み込んだなにか。そういうものをいつも反芻しているからだろうか、駒場をいったん離れて本郷やパリで、また都内の私大 で十数年を過ごしたあと駒場に戻ってきたときも、自分が変化したとか進歩したとかいう気はまったくしなかった。

歳月は確実にめぐり、「生を貪り食う時間」は破壊の作業を続けているにもかかわらず、自分がなにかしらのっぴきならない経験の及ぼす逆らいがたい力に関 わり続けてきたという心的感触は消しようがない。こういう大きな力の要請に自分なりに応えようとして筆者はテクストを読み、考え、書いてきたつもりである が、少年老いやすく……という思いは抑えようのないまま湧き上がってくる。

それでも、いつの頃からか、こういう考えが不思議なリアリティとともに浮かんでいる。それはつまり、かつてある時代に決定的に生きたと信じた経験、きわ めて密度の濃い、最も強烈さの高まった時間に確かに生きた出来事であると思われた経験が、実のところほんとうに生きられたものではなかった、いやほんとう に生きられていたのだが、真に経験し終わるような仕方では経験されなかったのであって、それゆえ繰り返し経験されるのではないか、という考えである。偶然 的に出会ったのだが、不可避的に生きられたとしか思えないなにか。自分を超えており、惹き寄せると同時に逃げ去ってゆくなにか。

それはいつも再び生きられるという様態でのみ経験される。つねに再開始されるという意味あいでは同じことだが、そのつど異なる次元で、別の仕方で、鮮烈 ななにかとして生きられる。それは一方から見れば生き直すことであるが、しかし同時に、他方から見れば、まったく新たに経験することである。これは「生を 貪り食う時間」の破壊作用(生成して止まない生の変動)を免れようと願望することではない。

ただ、もっと別の時間、おそらく本来的な時間を生きることである。ここで、いま、駒場にお別れを申し上げるが、駒場という土地とその霊(精神)に結ばれ ている経験は卒業することがありえないので、どこかで絶えず反復的に生きることになるだろう。本質的なテクストに関わり続けることと同様に、関係し終わる ことがないだろう。長いあいだほんとうにありがとうございました。衷心より感謝の意を申し述べます。

(言語情報科学専攻/フランス語・イタリア語)

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