HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報562号(2014年1月 8日)

教養学部報

第562号 外部公開

〈本の棚〉内田隆三著『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される? ――言語と運命の社会学』

田尻芳樹

562-C-2-2.jpgアガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』(一九二六)と言えば(未読の人はネタバレ注意!)、語り手自身が犯人であるという究極のトリックで物議をかもした作品として探偵小説史上に名高い。しかし、その仕掛けは単なる作家の悪戯ではない重大な意味を帯びていることを、本書は、さまざまな文学理論を動員しつつ、細部を徹底的に読解することでスリリングに論証している。たとえば、語り手のシェパードが探偵ポワロによって犯人だとされるのだが、詳細に読んでみると、彼は自分の手記(つまりこの小説)の中で決して自白をしていないし、決定的な物証もない。現にバイヤールのようにポワロの説を覆そうとする論者も出ている。

テクストがはらむこの不確定性は、語り手は嘘をついてはならないという探偵小説の公準を満たしつつ、(ホームズ的な探偵小説を乗り越えるために)語り手を犯人にするというアガサの野心が必然的に抱えてしまった二律背反の帰結である。語り手が嘘をつくなら語り全体の信ぴょう性が崩壊するため、「語り手はその真偽が決定不能な語りを続けるしかない」のだ。それだけではない。ポワロが語り手の手記(つまりこの小説)を読んでいる場面が出てくる。ということは、二つの異なる現実の次元がエッシャーのだまし絵のように相互的な「入れ子ゲーム」をなすという構造を内在させていることになり、これによりテクストは「不確定性の沼地に落ち込んでいく」のだ。

内田氏の『探偵小説の社会学』(二〇〇一)が明示的にフーコー的だったとすれば、本書は、細部に徹底的にこだわる読解によりテクストの不確定性をあぶりだすという意味で正調デリダ風に見える。思えば、英語圏の文学批評は九〇年代以降、政治(ポストコロニアルとジェンダー)と歴史(新歴史主義)の方へ大きく転回し、その中で脱構築批評も政治的な変貌を遂げた。最近では、文学研究と文化研究の境界があいまいになり、文学研究者が、社会学者の下手糞な真似をせねばならぬ局面さえある。

内田氏は、そんな状況をあざ笑うかのように、政治的転回以前に主流だったテクストの物質性とその構造分析に徹底的にこだわる批評をやって見せている。その道具立てには、実際、ポーの『盗まれた手紙』をめぐるラカンとデリダ、ジュネットのナラトロジーなど私が英文科の院生だった八〇年代に読まされたものも多く含まれている。最近、文学テクストに政治的力学を読み解くことを条件反射的に考えてしまう身としては、〈テクストの構造分析〉の重要性と魅力を大いに再認識させてもらった。

だが、内田氏は単にテクストの自律を前提にしているわけではない。その証拠に、アガサの伝記的事実を自由に読解に取り込んでいる(『アクロイド殺し』が出た年は、彼女が夫との離婚問題で失踪事件を起こした年である)。テクストの内部か外部かという単純な対立を超えようとする態度は先行作『探偵小説の社会学』でも表明されていた。とはいえ、本書は全体として先行作に比べ歴史的視点は後退している。

たとえば、先行作で指摘されていた二〇世紀の不毛な「空虚」はどうなったか? 本書の最後の章は、最も独創的だが最も分かりにくい「運命」をめぐる分析に捧げられている。つまり、誰が犯人かをめぐる不確定性は、被害者がなぜ殺されるのかという問いを前景化し、その問いの中では、普通なら無意味な偶然的な細部の散乱が、事後的に見て「運命」を指示するように解釈できるというのだ。これは『探偵小説の社会学』の末尾で指摘されていた「過剰な断片」の問題の延長だが、二〇世紀初めにせり出してきた人間存在の「空虚」という主題とどう結びついているか気になるところだ。

特異な作品であるとはいえ一つの探偵小説を、これだけ徹底的に解明しようとする内田氏の執念は一個の謎だ。だが、本書における読解の綿密さと動員される理論の重量から、トリックを過度に重視して人間学的興味を後退させたある時期の探偵小説を連想したりしてはならない。私の推理では、内田氏の執念は、人間の「運命」とは何かというきわめて人間学的な問題関心から来ているのだから。〈岩波書店、3360円〉

(言語情報科学専攻/英語)
 

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