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最終更新日:2018.07.09

教養学部報

第574号 外部公開

グローバルシチズンと恐れの気持ち ─キャロライン・ケネディ駐日米国大使との対話─

遠藤泰生

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キャロライン・ケネディ大使
二〇一五年一月二二日午後、キャロライン・ケネディ駐日米国大使と教養学部生との対話が、駒場数理研究科大講義室で行われた。二〇〇七年のトマス・シーファー大使、二〇一四年のジョン・ルース大使の訪問に続き、これで駐日米国大使が三代続けて本研究科を訪問したことになる。一・二年生を中心とする学部学生との対話に常に前向きな姿勢を示す歴代の米国大使にまずお礼を申し上げたい。また、多忙を究める大使のスケジュールを調整してくださる大使館のスタッフおよび万全の受け入れ体制を敷いてくださる駒場国際研究協力室の尽力にも感謝申し上げたい。関係者の協力無くしてこのような企画を継続させることは出来ないからである。

「太平洋は日米を分かつものではなく、むしろ両者を繋ぐものだと考えます」。これは一九六一年に訪米した池田勇人内閣総理大臣にジョン・F・ケネディ大統領が贈った言葉である。その後、ケネディ大統領は対日政策に力を注ぎ、例えばエドウィン・O・ライシャワー、ハーヴァード大学歴史学部教授を駐日大使に任命する一方、カルコン(CUL­CON:日米文化教育交流会議)を池田首相とともに発足させるなどして、日米関係の多面的構築に努めた。日米関係が今日のごとく分厚い二国間関係に育った一つの礎がケネディ大統領時代の外交政策にあったという歴史解釈は十分に成り立つ。一九六三年一一月に兇弾に倒れた大統領の長女が駐日大使として本研究科を訪問し、「日米のパートナーシップとグローバルシチズンの役割」という両国間関係の枠を大きく越えるテーマで学生と議論する姿を目にすることができるのは、考えてみればその父の政治的遺産かもしれない。J・F・ケネディの死後に両親が生まれている学生も少なくない駒場キャンパスで、そのような感慨を抱きながら大使と学生との対話に聞き入った。

前二回の大使の訪問と今回のケネディ大使訪問との違いの一つは、学生代表が壇上で自らの意見を述べ、それに対して大使が応える対話の時間が設けられたことであった。学生代表として登壇したのは、教養学科地域文化研究専攻北米コースの二名と国際社会科学専攻の一名の計三名であった。うち男性が一名、女性が二名という比率は、本学学部生のジェンダー比率を正確に映し出したものとは言えず、未来における女性の社会参加を対話のサブテーマの一つとした今回の企画の背景を、皮肉にも裏側から浮き上がらせることになった。学生との対話に先立ち別室で研究科長と大使が懇談した際にもこの点が話題になった。グローバルシチズンの社会空間をここ駒場にも築こうというのであれば、学生間のジェンダー比率の改善は早急に解決しなければならない大きな問題である。

しかし、今回の対話を聞きながら一番考えさせられたのは、大使も強調されたグローバルシチズンの要件とは何かという問題であった。あらためて指摘するまでもないが、シチズン(市民)という語には、同じ価値を共有できる者との絆という積極的なニュアンスと、同じ価値を共有できない者との隔たりという消極的なニュアンスとが、表裏で含まれ得る。それを、期待と緊張、あるいは希望と恐れと言い変えてもよい。このことが示唆する問題は大きい。現代世界が抱える課題の一つが、譲り合いや助け合いを行うほどには価値観を共有し得ていない市民との共存にあると思われるからである。似たものどうしが友好関係を保つのは容易い。しかし似ても似つかぬものどうしが少なくとも戦いをせずに共生、競合する仕組みを探るのがグローバル化した世界に生きる市民の責務となっている。自由や個人主義といった主義主張の根底には、そうした厳しい課題を引き受ける覚悟がなければならない。

グローバル化を標榜する駒場キャンパスでこのような消極的な呟きを記すのは、ほかでもない、グローバルシチズンに求められると私が考えるそうした恐れの気持ちを当日の会場で明るい発言を繰り返す学生たちが十分に共有しているのかどうか、若干の不安を覚えたからである。インドネシアに留学経験を持つ登壇学生や中国からの留学生の一人が会場全体に問いかけたように、世界でひろがる貧富の格差や信仰の違いが増幅させる暴力の応酬にどのような姿勢で立ち向かえばよいのか、私たちはまだ有効な答えを有していない。だからこそ、十分な話し合いが出来ていない相手と新たな関係を築くのに必要な智慧と知見を大学で磨くのだと弁明してみても、教員としての責任を棚上げしたような気持ちしかしない。大使との対話には時間の制約があり、こうした問題を十分に掘り下げることができなくて残念であった。

当日議論されたように、米国での日本の食や酒の人気を知り日米の生活文化の違いに思いを馳せるのは素晴らしいことであろう。アメリカに生まれイギリスに文化亡命したT・S・エリオットの言葉を引いて大使が説明したとおり、異なる文化を知らなければ自文化への深い理解も生まれ得ないからである。日米の野球選手が試合で凌ぎをけずる中で両国間の友好関係が深まるのも素晴らしいことだと思う。しかし、日米間だけに親密な関係を築き上げてもアメリカに住む市民も日本に住む市民もグローバルシチズンにはなれない。何事にも旺盛な好奇心を持ち、自らの発見や知見を日米以外の多くの国々の市民とも積極的に語り合う意欲を持たねば、グローバルシチズンへの視野は開かれない。大使が強調されたこの言葉の意味をあらためて私は噛みしめたい。ニューヨーク育ちの洗練を感じさせる大使が学生と交わす言葉を聞きながら、そのようなことを考えた。

(グローバル地域研究機構/英語)

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