HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報602号(2018年7月 2日)

教養学部報

第602号 外部公開

恩賜賞・日本学士院賞とフランス教育功労章を受賞(受章)して

松村 剛

ノーベル賞と芥川賞だけが賞であり、日本学士院賞も恩賜賞も知らないという方がいるかもしれません。日本学士院のホームページの紹介によれば、「学術上功績顕著な科学者を優遇するための機関」として一九〇六年に創設され、現在定員一五〇名のこの組織(当時は帝国学士院と呼ばれ、今の名称は一九四七年以後)は、人文科学と自然科学の二部(前者には「文学・史学・哲学」「法律学・政治学」「経済学・商学」の三分科、後者には「理学」「工学」「農学」「医学・薬学・歯学」の四分科)からなり、一九一一年以来、日本学士院賞(当初は帝国学士院賞)と恩賜賞を「学術上特にすぐれた論文、著書その他の研究業績」に対して毎年授与してきました。日本学士院賞は年九件以内で、その中から推薦されて人文科学と自然科学のそれぞれ一件以内には重ねて恩賜賞が与えられるという仕組みです。歴代受賞者一覧は次のサイトにあります:http://www.japan-acad.go.jp/japanese/activities/index.html。

駒場の日本学士院賞受賞者は一九六〇年以降に限ると(人事係で確認した情報によれば)、一九六一年「唐代音楽の歴史的研究 楽制篇 上巻」岸辺成雄、一九七一年「近代文学におけるホイットマンの運命」亀井俊介、一九七三年「原始キリスト教とグノーシス主義」荒井献、一九七四年「金史研究」三上次男、一九七七年「日本における外国文学─比較文学研究─」島田謹二、一九八一年「パスカル『パンセ』注解第一」前田陽一、一九九五年「星の進化と超新星の理論」杉本大一郎、二〇〇一年「初期発生における形態形成の基礎的研究」浅島誠、二〇〇四年“A History of Shōwa Japan, 1926-1989”中村隆英といった先生方で、恩賜賞も授与されたのは三上先生と浅島先生です。リストが正しいとすると、今年思いがけず私が受けることになった日本学士院賞は駒場で十四年ぶり、恩賜賞は十七年ぶり、人文科学の恩賜賞としては四十四年ぶりという計算でしょうか。

受賞の対象になった拙著Dictionnaire du français médiéval(『中世フランス語辞典』)は、九世紀半ばから十五世紀までの北フランス語(イングランド、イタリア、聖地などで書かれたフランス語も含みます)を現代フランス語で説明する一巻本の辞書としてパリで出版されました。内容の概略と執筆の経緯については『教養学部報』五八七号所収の拙文「アカデミー・フランセーズ『フランス語圏大賞』を受賞して」をご覧ください。

古いフランス語なんか関係ないという方は、今年四月の『教養学部報』「辞典案内 英語」で武田将明先生が「断トツで最大の英語辞典」としてOxford English Dic­tionaryを挙げ、そこで「“nice”を引いてみると、もともとの意味はちっともナイスじゃないことが判ったりする」とおっしゃっているのに従い、OEDを参照なさると、Old Frenchのniceからの借入語であることがわかるでしょうから、そこで満足せずに(実際OEDの語源記述は必ずしも十分とは限りません)拙著のniceの項を読んでいただけば何か補足的発見があるかもしれません。

中世フランス語など近現代のフランス語の理解には無関係と思う向きもありますが、実はそうでもなさそうです。一例を挙げれば、ラシーヌの戯曲『ラ・テバイッド』(一六六四年)二幕三場、ポリニスの台詞「無礼極まる群集を、裁きの主としなければならぬのですか、不遜なる王位簒奪者の、残忍粗暴な手先などを? わが敵に、卑劣なる利害の故に仕え、民心を離れていても、なお奴が煽動してやまぬ連中をです。」(渡辺清子訳。鈴木力衛編『ラシーヌ』筑摩書房、一九六五年、十九〜二十頁) (Dois-je prendre pour Juge une troupe insolente, D’un fier usurpateur ministre violente, Qui sert mon ennemi par un lâche intérêt, Et qu’il anime encor tout éloigné qu’il est ?)で使われている女性名詞ministre「手先」は、十七世紀末の主要な辞書でも現代フランス語の標準的な辞書でも男性名詞とされています。すでに十八世紀からこの箇所は誤用だと批判されましたし、一九九九年にラシーヌ全集を校訂上梓したソルボンヌ大学のジョルジュ・フォレスティエ教授も同意見でした。しかし中世フランス語に「召使い」の意味で使われる女性名詞の用法があるという拙著の記述から出発し、中世以降十八世紀までの女性名詞ministreの用例を収集すれば、二十五歳のラシーヌの若気の至りではないと理解できるのではないでしょうか。昨年短い論文でこの仮説を発表したところ、フォレスティエ教授は納得し、全集版増刷の折に拙論を引用して注を訂正すると確約してくれました。近現代のフランス語の理解に中世フランス語の知識は無益ではないようです。

このたびフランスの勲章のひとつ、教育功労章のオフィシエ級も受章しました(詳細は紙幅が尽きましたので省略します)が、言うまでもなくこれらの栄誉は拙著の価値をなんら保証するものではありません。一人で限られた時間で作った辞書ですから、内容をご覧になって飽き足りない方々には拙著に代わる名著をぜひ刊行していただきたく思います。そのきっかけになれば私の努力は無駄ではなかったと言えるでしょう。

(言語情報科学/フランス語・イタリア語)

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