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最終更新日:2018.07.09

教養学部報

第602号 外部公開

<時に沿って>プールと海

入江 慶

この四月に数理科学研究科に着任いたしました。その前の九年間は京都大学に所属していましたが、さらにその前は駒場で学部生をしていました。

私は大学に入学したころから漠然と数学の研究者にあこがれていましたが、将来に対する希望よりも不安のほうが大きかったように思います。その理由の一つは、そのころ専門的な数学の勉強を始めて、学ぶべきことの広さと深さに圧倒されていたからです。しかし、より根本的な理由は、勉強とは違う「研究」というものの実感がわからなかったことにありました。私は(勉強全般はそれほどでもなかったけれど)数学の勉強は好きで、中高生の頃はいろいろな本で問題を探しては工夫を凝らして解くことに喜びを見出していましたし、大学に入学してからも専門書を自分で読んだり友達とセミナーをしたりして楽しく過ごしていました。ただふと、そうした積み重ねの先に数学の研究をできる日が来るのか自問すると、どうしようもなく不安を感じることがありました。

その不安は駒場で過ごした学部時代に解消されることはなく、京都での大学院時代でも続きました。正直にいうと、学位を取って六年近く経ち教員の立場になった現在でも、「数学の研究とはこのようなものだ」と自信をもって差し出せる答えを私は持ち合わせていません。その意味で当時の不安は形を変えながら今も私の中にありますし、これからも当分そうであると思います。

それでも、現時点で私が感じている勉強と研究の違いについて何か述べようとするならば、その違いはプールで泳ぐことと海で泳ぐことの違いに似ている気がします。

既に確立された理論を勉強する段階では、その内容に間違いがあるということは、とりあえずは想定されていません(もちろん、教えられることを鵜呑みにしてはいけませんが)。またその過程で出題される問題は、大抵の場合、その理論の範囲できれいに解けることが前提とされています。私にはこれは、安全に管理されたプールで泳ぎの基本的な型を身につけ、その速さを競うことと似ているように感じられます。一方で研究者が取り組んでいる問題は、実際に解けるまで、そもそも解けるか分かりません。解けたとしても証明が膨大なページ数になることもあるし、一度は完成したはずの証明に穴が見つかることもあります。どこまで遠くに泳いで行っても、深く潜ってもよいけれど、安全は保障されていません。泳いでいて急に海が深くなることも、流されて思ってもみなかった場所に漂着することもあります。そして、研究において最もスリリングなのはそういう場面だと思うのです。

このような強引な喩えをしたところで何の解決にもならないのですが(また私はろくに泳げないのでそもそも水泳の喩えを持ちだす資格はないような気もしますが)、研究というものをこのように捉えると私は何となく元気が出てきます。皆さんにはどのように感じられるでしょうか。

(数理科学研究科)

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