HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報614号(2019年12月 2日)

教養学部報

第614号 外部公開

<本の棚>大石和欣著『家のイングランド 変貌する社会と建築物の詩学』

田中 純

「イングリッシュな家」と聞いて、思い浮かぶものは何だろうか。E・M・フォースターの原作、エマ・トンプソン主演の映画『ハワーズ・エンド』の舞台となった屋敷、あるいは、『ピーターラビットのおはなし』の作者ビアトリクス・ポターの描くコテッジだろうか。アーツ・アンド・クラフツ運動に関心があれば、その牙城であったウィリアム・モリスの邸宅が連想されるかもしれない。
本書は住まいの理想形として、一種の神話的な存在にまで高められた「イングリッシュな家」のイメージを、十九世紀後半から二十世紀前半にかけての英文学のうちにたどり、「家」を通してこの時代のイングランドの社会と文化を活写した、目覚ましい「建築文学」の研究書である。
著者はまず「理想の家」という「光」を際立たせる背景としての、大都市ロンドンの「闇」であるスラムを取り上げる。『ジキル博士とハイド氏』や『ドラキュラ』といった文学作品は、スラムに向けられた中流階級の恐怖と好奇心が入り交じった視線を反映したものだった。
他方、貧困化やスラム化をもたらす元凶と見なされた政治・経済的自由主義に対する批判は、ジョン・ラスキンやモリスをはじめとする中世社会への憧憬を生み、ネオ・ゴシック建築の教会が「ピクチャレスク」な象徴としてスラムに築かれてゆく。
スラムから距離を取ろうと中流階級が移り住んだ郊外住宅は、ユートピア化されたピクチャレスクな外観とは裏腹に、実際には流動的で不安定な空間だった。著者はその実態を、モダニズム文学から批判されて不当に価値を貶められてきた「郊外小説」のほか、ロンドン郊外で転居を繰り返した夏目金之助(漱石)の経験の考察を通して浮かび上がらせる。
「イングリッシュな家」のステレオタイプ的なイメージが形成されてゆく背景について本書は、家そのものが主人公と言ってよい小説『ハワーズ・エンド』の緻密な読解を通じ、この古い農家屋が都会/田園、帝国主義/小英国主義、イギリス/植民地、過去/現在、継承/断絶といったもろもろの対立・矛盾の文学的表象となっていることを鮮やかに明らかにしている。
その作者フォースターは「イングリッシュな家」が幻想でしかないことを示唆している、と著者は言う。同様に、上流階級のカントリー・ハウスもまた、貴族たちの政治・経済的な没落に連れ、大戦間期に急速に消滅するなかではじめて、庶民階級によって「イングリッシュな伝統」と見なされるようになった、幻想的な構築物である。文化的実体を失って形骸化した「空っぽの貝殻」だからこそ、そこにはノスタルジアが投影された。その虚構性を本書はデュ・モーリアの『レベッカ』やカズオ・イシグロの『日の名残り』のなかに読み取る。
最終章で著者が共感とともに描き出すのは、独特な建築評論家でもあった桂冠詩人ジョン・ベッチャマンの思想である。彼は悪趣味と疎まれるようになったヴィクトリア朝のネオ・ゴシック建築にこそ、円熟した歴史の層が宿っていると説き、その保存による歴史感覚の継承を促した。著者は建築に宿るこの複層的な歴史を「複合混成態」と名付ける。それこそが「建築物の詩学」の要なのである。
本書はピエール・ブルデューの「ハビトゥス」の概念を理論的支柱としつつ、建築をめぐる文学的表象の複合混成態を丁寧に解きほぐし、「イングリッシュな家」に託されたユートピア像とその背後にある現実の社会・文化的な文脈をくっきりと浮き彫りにしている。著者がそこに見出している、日常的な「生息空間」であると同時に文化を生み出す「心的構造」でもあるハビトゥスは、本書中の「「時代」のざわめき」、「歴史と人間の匂い」、「人びとの生活の息づかい」といった表現のうちに、如実に感じ取れるように思う。それは優れて身体感覚的なものなのである。
だからこそ、「想い出の家」という美しい題名の跋文で著者が語る、幼い日に四世代で暮らした古い木造民家の記憶に得心させられた。学術や書物もまたそうしたハビトゥスに育まれ、日常から生成される。かつて同じ書肆から上梓された川崎寿彦氏の名著『庭のイングランド』を継ぐ、奥行きあるイギリス文化史の誕生である。

(超域文化科学/ドイツ語)

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