HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報531号(2010年7月 7日)

教養学部報

第531号 外部公開

コピーとオリジナル ~「コピペ」をめぐる考察~

佐藤俊樹

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2号館脇のソメイヨシノ
日本の桜の約8割を占めるソメイヨシノは、クローンで
ある。つまり、桜のコピペだ。ついでにいうと、桜を語る
歴史や文芸の言説にも、孫引き、ひ孫引きがとても多い。
誰かが書いていたことが鵜呑みにされて、あたかも事
実のように語られるのだ。つまり、これもコピペ。してみ
ると、コピペは実は日本の伝統文化かもしれない……。
興味がある方は著者の『桜が創った「日本」』(岩波新書)
をどうぞ。
日本の大学教育もだいぶ様変わりしてきた。「オリジナリティ」や「毎日の積み重ね」が重視され、それに応じて、成績にもはっきり優劣をつけなければなら ない。「カレーのつくり方」で単位がとれた、とか、階段の踊り場からレポートを飛ばして採点する、といった面白噺も、今や都市伝説になりつつある。
 それはそれで望ましい変化ではあるが、新たな評価基準は、新しい不正行為を召喚する。特に近年目立つのが「コピペ」だ。  コピペ。いうまでもなく、コピー&ペーストの略語である。語源はたぶんコンピュータの、画面操作のあれだろう。少なくとも私がこの言葉に初めてお目にかかったのは、そちらだった。
ウィンドウズ3・1の前、マックがやたら光り輝いていた時代だ。「なるほど、写して(=コピー)貼り付ける(=ペースト)のか!」と感動した。何しろ、それまでは大型計算機センターの端末で、ひたすらコマンドを打ち込んでいたのである。
ところが、しばらくして、全く別の場面で「なるほどコピー&ペーストね……」と、今度はため息をつくことになった。授業のレポートや小論文で、こいつにしばしばお目にかかるようになったのだ。
出来あいの素材をもってきて、貼り付けて提出する。素材の入手先はネット上が多い。公刊された論文だけではなく、レポートや発表メモまであったりする。
置いた人としては「せっかくつくったのだから、誰かに見てもらいたい」ぐらいの気持ちかもしれないが、世の中、真面目な人だけではない。中身だけをいた だいて、自分の名前と学籍番号をつけ、自分の成果にしてしまう人間が必ず出てくる。「オリジナリティ」や「積み重ね」まで、それでコピーできるとしたら、 たしかに、こんなに美味しい話はない。
ネット嫌いの大学教員が少なくなかった昔は、この手で単位を荒稼ぎした学生がいただろう。成績にはっきり優劣をつける今は、つい手を出したくもなるのだろう。親切なのかなんなのか、使える素材を集めたサイトまであるそうだ。
しかし、世間はそれほど甘くはない。一人二人ならともかく、誰でも手軽にできるようになれば、否応なしに目立ってしまう。  最近は教員の方も「あれ? と思えばすぐ検索」だ。最初からファイルで提出させれば、あやしい箇所をそのままコピペして、検索エンジンにかけて調べることもできる。それであっさりネタ元が割れたりするから、呆れるというか、笑えるというか。
この辺になると、もう技術というより、心性の問題である。「剽窃」なんて仰々しいものではない。平仮名で「ひょーせつ」と書いた方がぴったりする。そんな軽い気持ちなのだろう。
もちろん、それがオリジナルな着想ならいい、というか、考えついた者勝ちであるが、手軽な思いつきは誰もが思いつく。まして「コピペ」だ。真似するのも簡単。かくして、よく似たモノがあちこちで出現して、露見する可能性をさらにあげる。
大体、ネタ元がオリジナルである保証もない。ネタ元も誰かのコピーで、それもまたコピーで、となると、結局、課題を提出する先の、当の教員の書いた論文 や著作がオリジナルであるかもしれない。そんな事態が起きたら、もう目も当てられない。ネタ元は丸わかり、どころではない。
コピペした側は「ひょーせつ」でも、された側からすれば立派な剽窃。まして自分の担当する授業の学生にやられた日には、「お前が苦労して書いた論文なん か、誰もまともに読んでないぜ」と面と向かって言われるようなものだ。頭に来ないわけがない。「こんな学生は停学か退学にできないものか」と本気で考え出 す……なんてことにもなりかねない。
そんなホラーな結末を避けたければ、たんなるコピペではまずい。自分でもお化粧しておく必要がある。素材も一種類だけではあぶない。いくつか集めて、つなぎあわせた方がよい。
そうなると、語尾の表現や口調のちがいも気になる。話の展開も噛みあっていないと、あやしまれるだろう。となると、自分で一部書き直した方がよさそう だ……。などと、傾向と対策を積み重ねていけば、最終的には、それなりにオリジナルで、それなりに勉強した、本物のレポートや小論文が一つできあがる。
まあ、現実にはこんなに綺麗なオチはそうそうつかないが、コピーとオリジナルについて考えるのには、ちょうどよい。
絶対的にオリジナルなものがあるわけではない。最初の出発点は、誰か別の人の作品。それに刺激されて、自分であれこれ考えたり、書いたりする。その積み重ねが独自の厚みをもつことで、オリジナリティになるのである。
コピペでも同じだ。素材を集めた後、ただ貼り付けて終わりにできるのか。それとも、気になってつい自分で手を加えてしまうのか。オリジナリティを持てない人間と持てる人間の、本当のちがいはそこにある。
コピペにしかなれない凡庸さと、コピペにはなれない才能。その間にあるのは、運の良し悪しではなく、心がけの良しあしや意思の強さ弱さでもなく、そんな、ある意味ではちょっとしたちがいかもしれない。
だとすれば、オリジナリティとは、見かけ以上に、公平で、そして残酷な基準なのだろう。

(国際社会科学専攻/経済・統計)

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