HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報533号(2010年11月 4日)

教養学部報

第533号 外部公開

エバンスブルー・日本脳炎・筋ジストロフィー

松田良一

「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ……」。 これはシベリアに抑留中の作詞家増田幸治氏と作曲家吉田正氏が作った不朽の名曲「異国の丘」である。吉田氏は、誰が作ったか分からなくなっても永く歌い継がれる歌を作ることは作曲家冥利につきると言った。電子情報が充実している科学の分野でもこんなことはあるだろうか? 私の研究者人生にもこれに類することが起きたので、その顛末を書きとめておきたい。

話は三十数年前にさかのぼる。当時、私は実家の寺との縁を断ち切るため東大医学部衛生学教室、続いて帝京大学医学部の教務職員として仕事をしながら都立大学理学部の夜間部に通っていた。毎日、2000匹を越えるマウスの飼育と器具滅菌。その傍ら、日本脳炎ウイルスのマウスへの感染実験を手伝っていた。日本脳炎は蚊が媒介し、発症すると高い致死率をもつ感染症。熱帯や亜熱帯では未だに猛威をふるっており、温暖化の進行により、日本でも再び流行することが懸念されている。発症機序の解明やワクチンの性能向上など、現在でも研究すべき点が山積している。実験室ではマウスの尾静脈内にウイルスを接種する。多くのマウスは感染しても発症しないが、一部は接種数日後に脳内でウイルス増殖と脳炎を起こし死亡する。

当時、ウイルスが脳内で一旦増え始めるとマウスは必ず死に至ると考えられていた。しかし、じっくり観察すると、発症したマウスの中に自然治癒する個体がいることを見つけた。これが私の初めての発見だった。大切な脳には怪しい物質を入れないしくみがある。脳には血液との物質交換を制限する機構、血液脳関門(blood-brain barrier, BBB)という特殊な関所があるからだ。これが壊れると脳が正常に機能できなくなる。

エバンスブルーという生体に無毒な色素をマウスの静脈内に注射すると白いマウスはあっという間に目や皮膚、内蔵などが真っ青になるが、脳は青くならない。BBBのお陰でエバンスブルーが脳内には入らないからだ。では、日本脳炎に罹るとBBBはどうなるか。さっそくエバンスブルーを脳炎に発症したマウスに静脈内注射してみた。案の定、発症したマウスの大脳が真っ青に染まった。しかも青く染まるのは大脳のみで、小脳や嗅脳は青くならない。これは日本脳炎で大脳のみBBBが壊れることを示した発見だった(写真1)。

B-1-1-01.jpg  写真1.
エバンスブルーを静脈注射されたマウスの脳。正常マウス(右)はBBBのお陰で全く青くないが、
日本脳炎発症マウス(左)は大脳のみBBBが壊れて青くなる。

私が見つけた自然治癒マウスでも大脳の一部が陥没し、そこが限局して青く染まった。「あっ、やった!」。大脳BBBの破壊が脳炎発症の原因であれば、抗炎症薬による脳炎治療の道がひらける。エバンスブルーという色素は緑色の励起光で赤色蛍光を発する。ウイルスに対する抗体を緑色の蛍光色素で標識し、感染脳の凍結切片と反応させるとBBBの破壊部位とウイルス増殖部位が蛍光顕微鏡下に一目で分かる。エバンスブルーの青さは比色計で定量できる。22歳の時、BBBが破壊された脳内炎症部位とウイルス増殖部位の違いを第22回日本ウイルス学会仙台大会で発表したのが私の研究者としてのデビュー。その一部は当時の日経新聞に取り上げられた。今から思えば、この時のワクワク感が私の一生を決定したといえる。この喜びを若いうちに味わってしまうと、一生、研究者という薄給・不規則な身に甘んじることになるのかもしれない。

大学を卒業した私は実家との葛藤の末、日本脳炎研究に終止符を打ち、曹洞宗の修行寺で僧堂生活を送った。下山後、大学院に進学。筋細胞分化の研究を始めた。それから在米6年間を含めて14年後、駒場に赴任。私は筋肉の再生の研究を続けた。幸い、難病である筋ジストロフィーの病態解明と治療法開発を目的とした厚生省の筋ジストロフィー研究班の班員に採用された。班員は研究費の交付を受け、年1回の班会議での成果発表が義務付けられる。この研究発表が審査され翌年の班員の採否が決まる。それは1993年の12月だった。3日後に迫った班会議を前にしても発表するデータが無い! 授業と会議に追われ、この一年間何をやってきたのかと悔やむのみ。呆然と試薬棚を眺めながら何か出来ることはないかと考えた。そこで目についたのが日本脳炎実験でお馴染のエバンスブルー。

研究に使用する筋ジストロフィーの疾患モデル動物はイギリスで発見されたmdxマウス。このマウスは遺伝子異常によりヒトの筋ジストロフィー患者と同様、原因タンパク質ジストロフィンを欠損している。しかし、このmdxマウスは筋変性が認められるがヒトに見られる重篤な致死的筋症状は呈さない。従って仮にmdxマウスを治療できてもその効果を定量的に表すことが困難だった。筋ジストロフィーの特徴は筋細胞膜の脆弱性にある。エバンスブルーを注射すれば正常対照とmdxマウスの間で何か違いが出るかも知れない。班会議が迫っているので、あまり待ってはいられない。早速、脳炎実験に使った濃度でエバンスブルーをmdxマウスと正常対照マウスに注射してみた。翌日、マウスの皮膚を切開すると目に飛び込んできたのは胸筋に出来た青い帯。大腿筋や全身の筋肉にも青い帯が見える。正常対照マウスには全く見られない(写真2)。「あっ、やった!」。

B-1-1-02.jpg


写真2.
エバンスブルーを静脈注射されたマウスの大腿部。正常対照マウス(右)では
筋肉は白いがmdxマウス(左)では青い帯が筋肉の走行に沿って認められる。

直ちにその部位の凍結切片を作って蛍光顕微鏡で観察。見えたのはmdxマウスの筋肉の中でエバンスブルー特有の赤い蛍光を発する筋ファイバーだ。これを病理染色すると赤い蛍光を発するファイバーは変性した筋ファイバーとピッタリ一致。変性していない筋ファイバーはエバンスブルーも陰性。つまり肉眼で青く見える筋組織は筋ジストロフィーで変性した発症ファイバーが集まった束だったのだ。

このエバンスブルーを使えば発症した筋ファイバー数をカウントして治療効果の定量的評価ができる。直ちに青い帯を持つ発症筋の概観と蛍光組織像をカラースライドフィルムに撮影し、終電間際の地下鉄で外苑前にあるカラー現像所に急いだ。この現像所は午前2時までに出せば翌朝7時には現像を仕上げてくれる場所。翌朝、私は班会議に行く途中、現像所でスライドフィルムを受け取り、地下鉄の車中で鋏を入れてフィルムをマウント。ようやく班会議に間に合った。会場ではmdxマウスの弱点を知り尽くした班員たちが半信半疑の様子。当時の研究室には大学院生はいなかった。その分、発見のスリルと喜びを自分一人で味わうことが出来た。

余談であるが院生が増えると研究は進むが、自身の研究に対する喜びは遠のく。大学院重点化以降、この傾向が顕著だ。院生諸君に言いたい。研究の進め方をいつまでも指導者まかせの受身的態度ではこの喜びは味わえない。これは研究以外のどんな分野についてもいえるだろう。

この生体染色研究には長い後日談がある。その後、エバンスブルー陽性の発症筋ファイバーは自発的細胞死(アポトーシス)を起こしていることを証明し、これらをまとめてアメリカ細胞生物学会の一流雑誌Journal of Cell Biology(JCB)に投稿した。

しかし、その意義を認めてもらえずrejectされてしまった。リターンマッチとして日本生化学会のJournal of Biochemistry(JB)に投稿し、1995年の末にようやく発表することができた。この雑誌は義理の祖父、柿内三郎博士が創刊した日本で最古の生命科学系英文雑誌。今でも生化学の分野では老舗の国際誌だ。しかし、驚いたことにその2年後、アメリカの研究者が私の論文と同じ内容に毛が生えた程度の論文をJCBに発表した。私の論文は引用されてはいたが、2年遅れでも自分たちがオリジナルといわんばかりの論調。論文採択は編集者と査読者次第。この種のトラブルは少なくない。

自国で世界に通じる学術雑誌の発行、研究成果の発信体制の確立が重要な所以である。それから15年後、今や筋ジストロフィーの治療法を確立すべく、遺伝子治療、幹細胞治療、薬物治療などがmdxマウスを用いて世界中で盛んに行われている。しかも、その効果検定には多くの論文でエバンスブルー生体染色を使っている。幸い、私のJB論文は世界中で引用され1922年創刊以来の全JB掲載論文引用率ベスト12にランクされた。筋ジストロフィーの治療に関する国際学会でも必ずこのエバンスブルー染色法を使った発表が続く。最近は変性筋ファイバーを見分けるための古典的常套手段として常識化し、あえて論文引用をしないケースも増えてきた。「異国の丘」の細胞生物学版か。

ところが、日本生化学会が発行するJBは資金不足のためか1996年以前の論文はPDFとして無料ダウンロードできない。JB論文の中には江橋節郎先生のトロポニン論文(横紋筋のカルシウム依存的収縮制御の調節タンパク質を発見し、トロポニンと命名)、垣内史郎先生のモジュレータータンパク質論文(全ての細胞に存在するカルシウム結合性調節タンパク質、モジュレータータンパク質の分離と命名。後のカルモジュリン)など、生化学史上大きな貢献をした日本が誇る論文が多数ある。これらがインターネット上でアクセスできないのだ。

その一方、外国では創刊以来の全論文PDFを無料ダウンロードできる一流誌が増えている。JCBもその一つ。例のアメリカ製のエバンスブルー染色論文も無料ダウンロードできるため、今も引用が続いている。日本の科学技術振興機構は我が国の学術情報の発信を効率化すべくJBはじめ国内で発行される多くの学術雑誌の創刊号からの全論文PDFを無料でダウンロードできるJournal@rchiveというwebサイトを立ち上げた。

そのURLは以下の通り。 http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/top_ja.php

しかし、驚いたことに、このwebサイトは世界中の研究者が使っている文献検索サイトとはフォーマットが違うためリンクしてない。つまり、わが血税を投入して作られたこのwebサイトは無策のため世界の研究者から全く利用されていないのだ。日本発の古いオリジナル論文はますます引用されなくなっている。これではまるで学術情報発信における鎖国だ。「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ……」。名曲を口ずさむ人には誰が作ったかは問題ではない。科学研究の成果も本質的には同様だろう。しかし、戦略の甘さで一方的に影が薄くなる日本の学術情報発信のあり方を思うと、暗澹たる気分になる。

その後、エバンスブルー生体染色法も微力ながら貢献し、筋ジストロフィー治療の開発研究は着実に進んだ。mdxマウスや筋ジストロフィー犬での治療成功例が徐々に報告されている。我々も遺伝子変異を無視して正常タンパク質合成を進めさせる薬物の開発に成功しつつある。しかし、ヒトに応用するにはいくつかの技術的な壁があり、残念ながら筋ジストロフィー患者は未だ誰一人として治って生還していない。

私には忘れられない人がいる。栗原征史さんという「神さまに質問」(「命の詩(うた)に心のVサイン――筋ジストロフィーを生きたぼくの26年」に改名。ラテール出版局。1999年)という本を書き、今も闘病生活を続けている筋ジストロフィーの患者さんだ。彼はその本の中で自分という筋ジストロフィー患者をこの世に送り出した理由を神様に質問して、「選ばれたぼくは、生きるという命の大切さを社会の人たちに教えることが使命」という答えを引き出した。私のような筋ジストロフィー研究者には、ベッドの上という「異国の丘」で今日も人工呼吸器を使いながら効果的な治療法の開発をじっと待ち続けている世界中の患者さんたちに福音をもたらす任務を神様から与えられているのだと思う。

(生命環境科学系/生物)

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