HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報533号(2010年11月 4日)

教養学部報

第533号 外部公開

ほとんどなんの感慨もなく

高田康成

B-2-2.jpg一年間の海外出張から帰国した。イェール大学にできた海外研究拠点への出向という、多忙を極める駒場の状況にどっぷり浸かっていた私にとっては天国のような業務であった。しかしどうしたものか、帰国してもほとんどなんの感慨もない。単なる加齢による脳の劣化と感性の鈍化だけでは済まされそうもない。

アカデミック・ライティング風に書くならば、考えられる理由は三つある。第一は、電子メール等の通信技術の革新に違いない。生息する場所を変えても、幸か不幸かメールは相変わらずの調子で入ってくる。スカイプで家族や友人と頻繁に話ができる。原稿の催促にいたっては、日本にいるときと全く変わらない。

第二には、自然科学では当たり前となっているが、人文系でもようやく輸入学問が終わったということがある。ジャーナリスティックな似非学問を除けば、何かを仕入れに外国に行くという行商は当然すでに成り立たない。イェールに行ったからといって根本的に研究の日常が変わるわけではない。(ただし、全米一とされるイェール大学の中央図書館とそれに関連するサーヴィスの充実ぶりは、残念ながら東大の比ではなく、その面では感慨がないどころではなく、愕然としている。しかし、欧米の一流大学との比較のうえで愕然とするのは、東大の経験としてそれほど珍しいことではないので、その意味では、やはりほとんどなんの感慨もない。)

第三には、多文化と多人種が入り混じるアメリカ的な特殊性があるだろう。基本的に皆が外国人であるところに外国人として闖入するわけであるから、余所者意識を抱くほうがおかしい。もちろん、実際にはカルチャー・ショックのようなことは起こるが、それは母国文化対異国文化といった二項対立をもたらさない。

今回の海外出張を私にとって徹底的に平坦なものにした理由を仮に意味もなく分析するとすれば、以上のようになるだろう。そのうちアメリカ的特殊事情を除くならば、いわゆる情報革命とグローバル化という、いまさら繰り返して言うのも恥ずかしい歴史的な二大運動が根本に横たわる。

かくして、長期出張から帰国して、ほとんどなんの感慨もないのは、それほど不思議ではないことになる。しかしその「感慨のなさ」には、上記第二の理由に関連してわずかに触れたように、彼我の差の比較を絶するがゆえに愕然とすることに慣れてしまったという「感慨のなさ」が含まれる。再びアカデミック・ライティング風に記すならば、大きく言って三つある。そしてそのすべては教育に係る。第一はカリキュラム問題であり、第二は教育支援体制であり、第三は教育の国際化である。

「日本の大学にはカリキュラムがない」とは、オックスフォード大学日本研究所教授ロジャー・グッドマン氏の言葉である。(我々には苅谷剛彦氏を引き抜いた人物と言ったほうが分かりやすいか。)アイスランドの火山噴火でニューヨークに足止めをくらったグッドマン氏を、ここぞとばかりにニューヘイヴンに呼んだのはイェールのお手柄であったが、その講演は「日本の高等教育の崩壊」と題されていた。論点は多岐にわたって極めて辛辣ではあったが、(残念ながら)すべてご尤もという内容であった。

なかでも極めつけは、カリキュラムをめぐるもので、日本では全国規模はおろか大学規模でもカリキュラムに関するグランド・デザインが決定的に欠如しているという指摘である。(但し理系は別。)全国規模でスタンダード化を果たしているアメリカに比べれば、英国も遅れてはいたが、今ではカリキュラム評価改善に関する第三者機関が機能している。グッドマン先生は日本でも教鞭をとった経験があり、このことに関するその舌鋒は辛辣を極める。曰く、デザインもなければ評価もない。

第二は、教育の支援体制である。象徴的存在は米欧の大学に必ずと言ってよいほど完備されている「ライティング・センター」である。ラヴ・レターから博士論文までを謳い文句に、その懇切丁寧な支援には驚くべきものがある。オックス・ブリッジに倣って構想されたイェールはいくつかのカレッジから成るが、あるカレッジなどはさらにきめ細かいライティング指導のためにと、作家を雇って常駐させている。(溜息!)駒場キャンパスにも、ALESSプログラムと同時にKWS(Komaba Writers' Studio)をなんとか設置したが、言うまでもなくその規模と内容は比べるべくもない。

第三の教育の国際化は、上記二点からしてすでに明らかだろう。カリキュラムの標準化がなければ、教育の国際的相互乗り入れは不可能である。教育支援体制における基礎インフラが貧弱では留学生も集まらない。それだけではない。国際体験を重要視し始めたイェールなどの一流大学は、外国大学での履修(最低一学期)を必修として義務付けているのだ。しかし、これら彼我の差に驚愕することに慣れてしまった感慨のなさという事態は、これを一体どうすべきなのだろうか。

(超域文化科学専攻/英語)

第533号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報