HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報537号(2011年4月 6日)

教養学部報

第537号 外部公開

知の森のヴァンデルンク

濱田純一

A-1-1.jpg新入生の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんがこれから勉学する場である東京大学は、広大な 「知の森」です。そこには、人々の長い歴史の中で育まれてきた知、そして世界のあちこちからもたらされた知が、たくましく繁茂しています。と同時に、いま 育ち始めたばかりの若木もあります。豊かな知識が溢れる場を表すのに「知の森」という比喩をなぜ使うのか、私にもその起源は定かではありません。ただ、な かなか言い得て妙だと思います。例えば、「知の山」、「知の川」といった表現では、たしかに変なのです。おそらく、森が持っている密度、多様性、生命力、 そして神秘な可能性といったところが、「知」が備えている性格を表現する言葉としてぴったりしているのだと思います。

皆さんには、この知の森のヴァンデルンクを、心行くまで楽しんでもらいたいと思います。自然の森と同じような気持ちで、知の森を歩いてほしいと思いま す。この「ヴァンデルンク」は、ドイツ語のWanderungです。野山を歩き回るといった語感で、最近ときどき日本でも、この言葉が使われることがあり ます。「ワンダーフォーゲル」も類縁の言葉だと言えば、分かりやすいかもしれません。大学での勉学も、後期課程で専門的な分野をより深く学び始めると、知 の森を自由に歩き回るという気分には、なかなかなりにくくなります。だからこそ、教養学部での前期課程のうちに、知の森の彷徨や探索を思い切り楽しんでも らいたいと思うのです。そして、それは、皆さんが後期課程で学ぶための基礎力ともなるはずです。

「知の森のヴァンデルンク」というのはどういうことでしょうか。実際に皆さんが、ちょっぴり冒険心を持ちながら自然の森を歩いてみると、きっとその意味 を実感できると思います。森を歩くと言っても、普通はまず、すでに作られている幅の広い道を辿ります。学問の世界でも同じです。教科書というのは、先人に 踏み固められた道の最たるものですが、それを辿ることによって、足取り軽く迷わずに知の森を歩き回ることができるのです。

ただ、私たちの生活に身近にある道以上に、森の道はあちこちで枝分かれしています。大学が育んでいる知の領域は実に多彩ですから、知の森の道も大きな道 から細い道まで、まっすぐな道からうねった道まで、道の形はきわめて多様です。森の真価を味わうのに、道の大小は必ずしも関係ありません。もちろん、皆さ んの知の基礎となる分野は大きな道として整備されていて、まずは、そこをしっかり歩いておくことが肝心です。それと同時に、大きな道で足慣らしができれ ば、そこから少し細い道に入り込んでみると、また違った知の森の魅力を味わうことができると思います。たくさんの道の中でどれを選択して歩いていくかは、 皆さんの興味次第です。自分が後期課程で何を専門としたいかによって、必ず歩いておかなければならない道もあります。しかし、それ以外にも自由に歩ける道 の多いことが、前期課程での勉学の特色です。

あるところでは、道の形がはっきりしていて歩きやすいかもしれません。ただ、道がはっきりしていても、平坦であれば辿るのは容易ですが、それが険しいこ ともしばしばあります。そこでは、大いに汗をかかなければなりません。またある時は、背丈を越える藪の中に道の形がかすかにしか見えないこともあります。 そういう時は、「藪こぎ」をしながら、全身の神経を張り詰めて道を探し求めていかなければなりません。そのような緊張に満ちた努力を通じて、皆さんの知的 な力が確実に養われていくはずです。

あるいは、そのうち皆さんは、すでにある道を歩くだけでなく、ちょっと脇の雑木の茂みの中に踏み込んでみたい誘惑にも駆られるでしょう。その中に可憐な 花や何か生き物の動きがあれば、なおさらです。それも、知の森の歩き方の一つです。そこに皆さんが、新しい道を作ることができるかもしれません。ひょっと すると、その茂みは案外すぐに抜けることが出来て、思いがけない道が向こうに伸びているのを発見するかもしれません。

こうした知の森の彷徨や探索を続けるうちに、皆さんは、たんに多くの知識ということだけでなく、知というものに取り組む体力やセンスを身につけることが 出来るだろうと思っています。これから大学で勉学を行っていくための基本装備である、概念、論理、証明、といったものの感覚を手に入れることが出来るはず です。本当にそうなのか、それは、まずは皆さんに実際に自然の森を歩いて確かめてもらうのが一番です。実際に歩くのは……という人には、例えば、アメリカ のヘンリー・ソローの『森の生活』(原題は、”Walden, or Life in the Woods”)などを読んでみるのも良いでしょう。知に通じる自然の霊妙さへの直観に満ちています。少しシニカルで、また教訓めいた言い回しが苦手な人も いるかも知れませんが。

これから教養学部で過ごす二年間、皆さんには、東京大学という知の森の恵みを満喫してもらいたいと願っています。

(東京大学総長)

追記:
この小稿の校正中に、東北地方太平洋沖地震の報に接しました。尊い命を失われた多くの方々に深い哀悼の思いを捧げるとともに、心身ともに大きな被害を受けられた皆さまに心からお見舞いを申し上げます。

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