HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報540号(2011年7月 6日)

教養学部報

第540号 外部公開

インタビュー・井上学術賞受賞・小林俊行教授 無限次元の対称性の数学 ~根源から湧き出す泉の豊かさ~

聞き手:寺田至

540-B-3-1-01.jpg●この度は井上学術賞の受賞おめでとうございます。最近だとiPS細胞の山中伸弥先生(京都大学)も受賞された賞ですね。小林先生の授賞理由となっ た「無限次元の対称性の解析」のこと、あるいは最近の研究内容を、教養学部の人にも伝わりやすい柔らかいことばで説明していただけませんか。

ありがとうございます。それでは最近の研究テーマの一つである(無限次元の)「極小表現の解析」についてお話ししましょう。まず、この研究テーマ名からして、皆さんになじみのない用語だと思うので、そこから説明しましょう。

数学用語の「表現」は、日常生活で用いる「表現」とはほとんど無関係です。大まかに言うと「対称性と重ね合せを備えたもの」のことです。例えばボールが 丸い、どう回転させても同じ形だというのは、図形の対称性ですね。また、ルールの対称性というのもあります。例えば法律なら誰でも同じことをしたら同じよ うに判断されるとか、万有引力の法則なら場所が違っても同じ法則が成り立つとかいうのも一つの対称性です。

さらに数学では、一個のものを考えるだけでなくて、例えば波を全部集めた「もの」とか、関数を全部集めた「もの」とかも考えますが、そうしたものが全体 としてもつ対称性もあります。これは目に見える図形的な対称性ではありませんが、解析学に出てくる対称性や量子力学的な対称性はその代表的なものです。
重ね合せが成り立つ世界とは、どんな世界でしょうか? 波の例として音で考えると、澄んだ音、例えばドの音とかミの音とかがあって、それを重ね合せる と、和音という少しむずかしい音になり、もっといろいろ重ね合せると、普段我々が聞いているような音にもなります。そういう世界では、逆に複雑なものも、 単純なものがたくさん積み重なったものとみなせます。
そうすると、古代ギリシャに現れた思想「アナリシス・アンド・シンセシス」の考え方で、これ以上分解できない最小のものは何かを理解して、複雑なものは それを積み上げたものとして理解するというアプローチが可能になります。すると、普通はとらえようのない無限次元のものでも、ある程度そうやって人の手が 届く、何らかの構造が解明できる対象になります。
 これ以上分解できない最小のものと言いましたけれども、実は、重ね合せによる分解という古典的な考え方だけを用いるのではありません。より単純なものか ら複雑なものを構成する、表現のインダクションという仕組みがあります。その仕組みを逆にたどると、単に分解するだけより、もっと根源的なものに行き着き ます。実は、本当に根源的なものは非常に種類が少ないのです。実際、対称性のほとんどは一次元のものに端を発していることがわかります。根源的なのに無限 次元のものもごく少数存在します。この例外的な無限次元の対称性の代表格といえるのが極小表現です。

540-B-3-1-02.jpg●対称性の中で根源的なものを見つけたいということでしょうか。

見つけて終わりではないんです。
極小表現とは、対称性が実現されている場所がうんと小さいという意味ですが、逆の見方をすれば、その小さい場所に、奇跡的に、途轍もなく大きな対称性が 実現されているということでもあります。それはとても傑出した特別な対称性で、珍しいものだけに、異なる方法でがんばって作ったものが、実は同じものにな る可能性もまた高い。どの坂道を登っても、登り切ることができれば、同じ山の頂上に到達するという感じが極小表現にはあるのです。全然違う数学を使って、 例えば一方では幾何的な構成法、他方では解析的な構成法によって同じものが作れれば、それは異分野の数学を結びつけることになります

また、奇跡的に大きな対称性が実現できている特別な場ですから、いろんなおもしろいこと、いいことが凝縮して起きているはずで、そうすると、極小表現を 新しい数学の発見の手がかりとして応用するということもできるだろう。例えば、関数等式をたくさんもつ特殊関数も、大きい対称性に引っ張られて見つかるの ではないか。

こういう根源的なもの自体に焦点を当てて、それもさまざまな光を当てて、幾何とか解析の新しい理論を生み出していきたいと思っています。

●極小表現の解析といっても、解析だけではないんですね。

はい、幾何の世界でもあるし、代数の世界でもある。数学は大きくわけて、解析・幾何・代数の三つの分野にわけることが多いですけれども、その三つ全部が極小表現の解析にダイナミックに関わってくるところが面白いですね。
このテーマを考え始めて二十年近くになります。初めの十年ぐらいは、講演はするけれど論文の執筆にとりかかるでもなく、ゆっくりと考えを温めていまし た。そのあと何百ページも論文を書くことになるのですが、こんなに書く材料が尽きないのも、とても自然な研究対象にめぐりあえたからだと思います。そうい うよい源泉がどこで湧き出しているかを探すためには、のんびりとした気持ちが必要な気がします(笑)。すごいエネルギーは注ぎこむけど時間的にはのんびり と、というような。

●教育についてのお話も聞きたいと思います。ハーバード大学の大学院で講義されたとき、学生のアンケートで「わかりやすい」「後輩にもこの講義を熱 烈に勧めたい」などの項目で全学で一番だったそうですね。ここの教養の講義でも、数学の講義としては東大始まって以来の大人数が聴講していると聞きまし た。

私はやっぱり学生さんが好きなんだと思うんですよね。だから教養学部で講義をするのも好きで、逆にそれがきっと学生さんにも伝わるのかなあと思います。 特に、六歳から二十歳ぐらいまで数学を勉強して、数学の講義を聴くのはこれで最後だという学生さんに、何か数学っていうのがおもしろかった、ただの遊びの 楽しさではなく、何か深いものがそこにあるということを、自分で全部到達できなくても何か感じて、少し入り込んだり逆に理解できなかったり、その過程の中 で自分が一回り大きくなったと感じる楽しさというのはあると思うので、そういう教育ができるのはすごくうれしいんです。

教えるのが上手とか字がきれいとかというのと全然違うんだけど、本物の数学の息吹を感じてもらう手助けなら少しできるかなあと。一・二年生を教えたいという気持ちは、そういうところにあります。

自分の中のものが人に伝わる、あるいは人のものが自分に伝わるという、空気中に飛び交うもの、目には見えない何かがあるでしょう。ぼくは、こういう空気 を大切にしたいのです。ついさっきまで研究していた先生がパッと教室に行って講義する。研究に没頭していた空気がまだ服にもついてるし、体の中からも出て いるかもしれない、それを伝えて、また学生さんは学生さんで日々研鑽して伸びている空気を出してそれを一つの教室で共有するっていうのが、何かすごく素敵 なものだなあと思う。それが教えることが好きな理由の一つかなあと思います。  自分自身が東大の教養学部の学生だったころを思い出すと、シェークスピアの小田島雄志先生の英語の講義を受けて、小田島先生のことを何も知らなかったけ ど、彼の存在そのものから何かすごく楽しい雰囲気が伝わってきた記憶があります。そういう体験ができるのが教養学部生の特権なんだと思います。昔、一高の 先生もそういう先生が多かったと聞いています。
ここの学生さんは特に、卒業した後いろんなところで大事な役割を果たす人が多いですよね。その人たちが十八、十九歳という年齢の時に何に接するかは、本 人の一生に影響するだけでなく、社会全体にも影響することと思います。自宅にこもってインターネットをしているだけでは味わえない、生のアカデミックな空 気をいっぱい吸える。
それがやっぱり学生の特権で、ぼく自身も学生時代そういう環境に恵まれてきたとつくづく思います。逆にぼくもそういうことのお手伝いをしたいという気持 ちになるのです。専門に行くと専門の知識も学べるけれども、それ以前の教養学部の一・二年生のときに、そういうリベラルアーツの空気にたっぷりと触れてい る環境というのは、とっても大事な財産な気がしますね。

●お忙しいところ、どうもありがとうございました。

小林俊行(数理)
聞き手・寺田至(学部報委員/数理)

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