HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報540号(2011年7月 6日)

教養学部報

第540号 外部公開

〈本の棚〉 菅原克也著『英語と日本語とのあいだ』

増田一夫

540-C-3-2.png『英語と日本語のあいだ』。このタイトルから、本書が英語を学ぶ方法を指南する書であること、さらには「コミュニケーション英語への疑問」と帯にあるように、特定の教授法に異議を申し立てる書であることを想像するのはむずかしいに違いない。
二〇〇九年に新指導要領が公示された。それによると二〇一三年度から、高等学校の英語は科目の大部分が「コミュニケーション英語」となり、授業は基本的 に英語でおこなわれることになる。「授業を実際のコミュニケーションの場面とするため」だという。本書は、その変更が含意する「口頭でのコミュニケーショ ン」偏重に疑義を呈している。なぜか?

二十年以上も大学生を相手に英語を教えてきた著者は、近年の状況について三重の診断を下している。読解力の 低下、基本的発音が身についていない学生の増加、英語に根深い苦手意識をもつ学生の増加。その背景には、「英語学習熱」の異常なまでの昂進のなかで「流暢 に英語を話す力」ばかりが重視されてきたこと、その一方で学習を助けるべきさまざまな手段や道具が看過されてきたことがあると分析する。そして彼は問う。 帰国子女なみの運用能力を到達目標として設定するかのような身ぶりは、「一般的日本人英語学習者」を無力感に陥らせるのではないか? 口頭の「物真似」を 学習の中心におくと、かえって基本的な発音規則さえ覚えなくなるのではないか? 訳読を放棄すると、英語を正しい日本語に置き換えることができなくなるの ではないか?
それに対する処方箋は、ごく論理的に次のようなものになる。流暢さはなくとも正しく通じる英語という目標の設定、発音記号による基本的発音の学習、日本 語で生活する学習者が最も入手しやすいインプットである「読むこと」の復権。なお、母語による説明という強力な武器の放棄を強いる「英語による授業」は補 足的なものにとどめる。

「なーんだ。古色蒼然たる文法と訳読の礼賛ではないか」と思うむきもあるかもしれない。そうだろうか? 会話の訓練など無益だ、というのではない。むし ろ、日本という単一言語使用社会に暮らす学習者の環境を考えると、「コミュニケーション英語」を効率的な教授法とするのは幻想にすぎないということであ る。その幻想は、「読解力が現状を(はるかに)下回り、書く英語に文法力の不足が露呈し、口頭での『コミュニケーション』能力は初歩レベルにとどまる」と いう、「すべてが中途半端に終わってしまう」結果をもたらしかねない。
 また、著者は手放しで文法と訳読を褒めているのではない。彼は、訳読の授業でおもしろいものはあまりなかったと回顧している。教員として最終的に納得の できる授業形態を見出していないとも告白している。にもかかわらず、訳読は必要だという。英語の発想、それを表現するための語彙・語法・文法、英語と日本 語のあいだに成立するさまざまな等価性。それを頭に染みこませるためには訳読という地道な努力は避けられない。要するに、英語(外国語)は一日にしてなら ず、なのである。

「一般的日本人英語学習者」に宛てられた本の書評を、母語ではない言語で外国語を学ばざるをえなかった私のような人間(=キコク)が書くのはいささかミスキャストに違いない。だが、hipは「おしり」ではないという例が印象的な「等価性」の問題、つまり二つの言語のあいだの対応関係はキコクが大いに悩む問題でもある。バイリンガルと呼ばれる人々のなかには、熟知しているはずの二つの言語世界をへだてる深淵のため、両者を対応させられない人々がいる。そこに橋を架けてくれるのが、訳読の継続的な実践にほかならない。

「世界共通語」の宿命として、ある場面での集団全員にとって英語が「外国語」だということがありうる。だから目標はあくまでも「外国語としての英語」でよ い。この意見はきわめて現実的である。同時に、「英語という外国語を、日本社会のなかにどう位置づけるべきなのか」という問いにも耳を傾けなければならな いだろう。移民や外国人の受け入れにきわめて消極的な、日本という類い稀な単一言語使用社会。その社会が、英語という他者(のみ)の受け入れを国民的義務 であるかのように位置づけるとき何が起こるのか。受け入れは可能なのか。かの問いは、そのような考察も要請している。
プラグマティズムの伝統に恥じぬ、経験とコモンセンスに裏付けられた地道な議論。反駁したいむきは、ぜひ本書を熟読していただきたい。もちろん、著者に よる三重の診断に心当たりがある場合は、「一般的日本人英語学習者」ならずとも、ぜひ手にとってほしい。というのも、ここまで書いて気づいたのだが、本書 は冒頭に述べた「疑義もしくは異議申し立ての書」であるよりもはるかに、英語に苦しむ人々にむけた、温かい応援の書だと思われるからである。
〈講談社、七七七円〉

(地域文化研究専攻/フランス語・イタリア語)

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