HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報541号(2011年10月 5日)

教養学部報

第541号 外部公開

放射線学

鳥居寛之

三月の震災の影響で、我々の日常は大きく様変わりした。原子力発電所の事故についても連日トップ ニュースで報じられ、ベクレル(放射能の単位)やシーベルト(放射線量の単位)、セシウム137(放射性物質=不安定原子核同位体の一種)といった、ほと んどの人にとってなじみのなかった言葉の意味を正しく理解できないまま不安にかられた人も多かった。

我々には正しい科学的リテラシーが求められている一方で、放射線に関する学問は多分野にわたり、大学などで系統立って教えられる機会も非常に限られてい る。そこで、五月から六月にかけて、自主講義「放射線学」を開講した。初年次活動で知り合った二年生からの要望を受け、放射線の科学的基礎知識を身につけ てもらいたいという思いを具現化したものだ。

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図1 原子は原子核の周りに電子が束縛された系。原子核のうち陽子や中性子が過剰なものは不安定で、
放射能をもち、α線やβ線などの放射線を出して崩壊(壊変)する。
 

全六回の講義+討論一回のなかで、放射線に関する様々な分野を講義した。列挙すると、放射線入門、 放射線物理学、放射線生物学・防護学、原子核物理学・原子力工学、放射線の利用・医療、放射線計測学・加速器科学。誰でも聞きやすい話と、物理よりの講義 とを隔週で織り交ぜるスタイルで講義したが、結果として受講者はほとんどが理系であった。

興味の対象は各人各様で、全分野に満遍なく分布した。講義はビラなどで繰り返し広告し、なかでもネットによる宣伝効果は高かった。ツイッターで話題にな り、学外一般からも熱心な数名が受講した。初回参加者は全部で四十名。うち学生は三十名で二年生が中心。期待していたよりは少なかったが、学期途中からの 開講で単位も出ないわりには健闘したといえようか。集まった精鋭達はかなり高度な内容にもめげずに真剣に受講してくれた。

 私の専門は粒子線物理学で、放射線管理区域の加速器施設で反陽子などを操り、反水素などエキゾチックな原子の物理を研究している。自分の専門および関連 分野とはいえ、毎回異なった話題をほぼ全てスライドやビデオ映像で授業するのは、毎週締切に追われながらの大変な作業であった。改めて何冊もの教科書や専 門書・一般書を読み、学生時代に生物学科に通って履修した放射線生物学のノートや、最近の放射線医療のシンポジウム資料をひっぱり出してきたり、または ネットの資料を活用しつつ、毎回の講義を組み立てていった。

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図2 放射線の種類とその透過力。α線(ヘリウム原子核)は紙一枚で、
β線(高速電子)はアルミ板数ミリで止まる一方で、電荷をもたないγ線(高エネルギー光子)や
中性子線の遮蔽にはメートル厚のコンクリート壁などが必要となる。
 

自主講義に加え、その前後には、広域科学専攻教員など向けの講演・討論会や、オープンラボの折りの 一般向けシンポジウムで講演をした。十一月には高校生のための金曜特別講座も予定している。これら講義のスライドや、物理部会の教員有志で執筆した関連文 書をネットで公開しているので参考にして頂きたい。 http://radphys4.c.u-tokyo.ac.jp/~torii/lecture/

放射能汚染に対して、学生たちは案外冷静に対応しているように見受けられる。冷戦後生まれで原子力の軍事利用という側面を知らない世代ということのほか に、学者の意見を素直に受け入れる気質もあるのかもしれない。人は目に見えないものに対して恐怖を抱きがちだが、霧箱によって可視化された軌跡の観察や GM計数管(ガイガーカウンター)による測定を体験する、理系必修の基礎実験科目が役立っているようだ。

一方で、世間一般の大人世代の中には、過度の恐怖心にかられている人も少なくない。当初、世界中で見られた浮き足立った反応は事態の推移とともに落ち着いてきているが、それが必ずしも国民一人一人が納得して正しい科学的知識を身につけた結果であるかは疑問である。

放射線による人体への確率的影響について、専門家の間でも意見が分かれたことや、線量に関する国の基準が一定しなかったこと、そもそも国や電力会社の発 表に対する不信感が広がったことも背景にある(駒場で七月に開催された一般向け勉強会では、放射性物質が怖いと感極まって泣き出してしまう子連れの女性が いたと聞く)。

ただ、放射線の人体への影響はゼロではないにせよ、少ない線量ではリスクもそれだけ小さくなる。大規模な疫学調査や生物実験のデータを基にした国際放射 線防護委員会の見解は、百ミリシーベルトの被曝で将来のがん死が人口比〇・五%の増加。一ミリシーベルトならその百分の一だ。合理的に達成可能な範囲で線 量を減らす努力は必要だが、心配しすぎたり不安を煽ったりすることはせず、科学的知見に基づいて放射線を「正当にこわがる」心がけが大切である。

自主講義は時間割が合わず受講できなかったという声を何人からも聞いた。潜在的には関心をもつ学生はまだまだ多いと思われる。そこで、この冬学期には主 題科目テーマ講義として「放射線を科学的に理解する」を金曜五限に開講する。生命環境応答学の渡邊雄一郎先生、環境放射化学の小豆川勝見先生とのコラボ レーションで、学内外のゲスト講師も招いて、更に幅広い分野の連続講義を準備している(シラバスを参照)。ぜひ今学期のテーマ講義を履修して、定性的およ び定量的に正しく判断する能力を養ってもらいたい。

(相関基礎科学系/物理)

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