HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報543号(2011年12月 7日)

教養学部報

第543号 外部公開

<送ることば> 時の過ぎゆくままに

長谷川まゆ帆

本村凌二先生は映画「カサブランカ」の酒場に流れていたあのジャズブルース《As Time Goes By》を覚えていらっしゃるだろうか。若い頃ジャズに魅せられ、三百枚を超えるレコードやCDを持っていたという先生ならきっと、あの名曲の歌詞にもある ように「時は移り流れても大切なことは何も変わらない」ことを、ずっと前からご存じだったにちがいない。

古代ローマの闘技場を照らし出していた「♪月の光も愛の歌も、決して時代遅れにはならない」「情熱もあれば憎しみもある」「愛に生き戦うか、ただ死ぬの か、愛に生きる者こそが祝福される、それが昔からの変わらぬ物語♪」。だからこそ先生は、ときにカプリ島のティベリウス帝の別荘跡からナポリ湾の絶景を眺 め、またポンペイやソンマの遺跡をくまなく探査して残された落書きや碑文に目をやり、友人のために命を懸けた剣闘士の「日記」にも心躍らせながら、二千年 の隔たりを軽々と飛び越えて、古代ローマの街並みや仕組み、捨て子や奴隷、剣闘士、娼婦やガレー船の漕ぎ手となった徒刑囚にも熱い思いを寄せてこられたの だろう。

そう、本村凌二先生と言えば、いまや知る人ぞ知るローマ史の著名な歴史家であり、古典古代に関するお仕事の蓄積たるや計りしれないものがある。それらを いちいちここで紹介していると、たちまちこの記事の紙幅は尽きてしまう。定年のこの最後の年だけでも、すでに単著・編著あわせて二冊が出ており、来月さら にもう一冊が上梓される。

先生はまぎれもない書斎派だった。日曜以外は毎日夜遅くまで研究室にこもり、いつも原稿に追われていた。ラテン語やギリシャ語など、ただでさえ語学の精 進のきつい古代ローマ史を専門にしている先生は、地中海関連の研究をフォローするだけでも時間がいくらあっても足りない。しかし先生は仕事を手際よくテキ パキと、そして黙々と片付けていく。教養があり視野も広く文才もある。その叙述には誰にもまねのできない豊饒さと華があった。  

加えて、特筆すべきは、周囲の女性たちから絶大な信頼と人気があったことだ。それはなぜだったのか。たしかに若い頃には「名うてのプレイボーイ」という 噂もあった。ちょうど嬰児遺棄を扱った最初のご著書『薄闇のローマ世界』が出た後に駒場に赴任してきたわたしは、男性で捨て子を研究対象にしている方って どんな人なのかと興味津津だった。インド史の長崎暢子先生からは、あるインドの女性研究者に昔学部報に載った本村先生の写真(昭和五九年五月号掲載)を見 せたら、即座に He looks a dangerous boy ! と返ってきたという話も聞かされていた。やはり噂通りの女たらしなのか……。その写真を目にしたのはごく最近のことで、三七歳の頃の端正だがややクールに 映っている本村先生は、たしかに「もてそう」で、見るからに「危なげ」である。

しかし本村先生がもてたとすれば、それにはそれなりに理由があったのだと今ならわかる。近くで接してみるとすぐに判明するように、先生はきわめて慎重で 控えめ、ルールと和を重んじる。あれほどの業績や大学への貢献がありながら、腰が低く、物静かで謙虚である。誰のことも悪く言わない。どんな人に対しても 一歩下がってまずは相手の話をまっすぐに聞く。自分の話は後回しで、相手のよいところをみつけては褒めてさえくださる。そうした人間としての美しさ/奥ゆ かしさを自然に実践できていたからこそ、女性陣からは熱烈に歓迎されたのである。先生ほど人にさりげない心遣いができ、何事も「ほどほどに」というバラン ス感覚を備えた人はまれだった。

他方、本村先生にオークス三歳馬のレース等で東京競馬にご招待いただいた教職員は少なくない。参加者は皆、あのスタジアムの嵐のような歓声と興奮を忘れ ることができない。最初は後方にいた馬が途中からわ~っと出てきてトップに躍り出たときなど「我々の人生もこうありたいものだ」「いやむしろ最初はトップ だったのに中盤遅れて、だけど最後にまた出てきて花を咲かせるなんてのもいいな」などと誰からともなく冗談がとび、皆で笑いころげた。予想はめったに当た らなかったが、先生は勝つことよりも、人が集い一瞬の夢に心を揺さぶられることに魅了されてきた人である。いくつになっても友達があちこちにいて、酒を酌 み交わし、心をゆるして語り合う、そんな時間が実はいちばん幸せなことを、先生は誰よりもよく知っていた。

おそらく本村先生にとっては、定年は小さな通過点にすぎず、これまで以上に旺盛な執筆活動を通して、古代ローマや地中海世界を開示し続けていかれるだろ う。ときの過ぎゆくままに、今度こそジャズでも聞きながら、「酒とバラの日々」にまたご一緒させてください。ご活躍を祈っています。

(地域文化研究専攻/歴史)

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