HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報544号(2012年1月11日)

教養学部報

第544号 外部公開

〈駒場をあとに〉 離任(と赴任)のごあいさつ

古矢旬

544-D-6-1.jpg本当に早いもので、駒場に赴任してあっという間に五年が過ぎたというのが実感である。実は私は、赴 任の際に駒場では恒例となっているらしい新任の挨拶「時に沿って」を学部報に寄せていない。何よりも、生来の怠け癖のせいであったことは間違いないが、還 暦間近での異動先でわずかな期間に何ができるだろうかと考えても、知力も体力もはなはだ心許なく、抱負や課題を語る気にならなかったというのが本当のとこ ろである。ふりかえってみて、実際、教員に求められるべき教育・研究・行政の仕事のどれをとっても、Cか、良くてせいぜいBマイナスぐらいの貢献しかなし えなかったと忸怩たる思いがある。お詫びの印というわけでもないけれども、以下ではこの五年間をふりかえっていくつかの感想めいたことを記すことで責めを 塞ぎたい。

教養学部生以来ほぼ四〇年ぶりに戻ってきた駒場は、やはり懐かしく、楽しいことが少なくなかった。孫のような年齢の学生たちは個々人をとると、人生に前 向きで、勉強熱心で、優秀であり、ちょっぴり「生意気」なところが少しも昔の学生たちと変わらない印象であった。大きく変わったと感じさせられたのは、全 体として学生は礼儀正しくなり、「都会化」し、「均質化」した点であった。かつて駒場の新入生の世界の半分は「都会化」していたかもしれないが、残りの半 分は地方の陰翳を帯びた文化や言語の見本市であった。この学生文化の変容は、おそらく高度成長以後のテレビ時代、より顕著にはネット社会の到来以後起こっ た中央と地方との文化的な差異の一掃、日本文化の平準化の結果であろう。

この学生気質の変化を反映してもいるのであろうか、駒場のキャンパスもその印象を大きく変えた。かつての駒場寮跡はコミュニケーション・プラザへと変貌 し、昼夜を問わず学生たちが明るく集い、歌い、踊っている。そのこと自体、悪いことではない。ただ、今は失われた駒場寮からキャンパスの東側に広がってい たあの鬱蒼とした無定型な暗がりは、青春時代の精神に特有の戸惑いや後ろめたさやどっちつかずの思い切りの悪さなどを吸収し受け止めてくれる空間だったよ うに感じるだけだ。

 そういう空間は今わずかに、西側の野球場の裏手の森や「一二郎池」の周りに残されているだけのように思う(「一二郎池」の醸し出すあの不気味な感じに は、興味が惹かれる。あの池の周辺の雰囲気を不気味と感じるのは、私だけであろうか。数年前、池の整備がなったときの学部執行部の再三のすすめにもかかわ らず、コミュニケーション・プラザから池の周回路へと降り、談笑したり食事したり散策したりする学生の姿を見かけることはほとんどない、のはなぜだろう か。駒場の愛犬「キクマルくん」だって、あちら方面にはあまり散歩に行かないのじゃないだろうか)。

いずれにしろ学生もキャンパスも明るくなった。しかし、それではかつての青春が帯びていたあの「暗さ」は一体どこに消えてしまったのだろうか。個々の学 生たちが、それぞれに内側に抱えて封じ込めているということなのだろうか。私が駒場を去るに当たって抱く大きな疑問である。

研究の面では、大学院生の頃から数え切れないほどの機会、利用させてもらった「アメセン」(今はCPAS)図書館の直近に研究室が与えられ、いつでも好 きなときに雑誌や図書を閲覧できるという(おそらく日本のアメリカ研究者の中では最も贅沢な)環境は、本当にありがたかった。ただ、それを十分に生かしア メリカ研究の発展に貢献したか、また私の赴任に際して駒場のアメリカ研究の先任スタッフたちが期待されたであろうCPASの基盤強化の担い手という役割を しっかりと果たしたのかと問われれば、やはり反省が先に立つ。

「九・一一事件」以後、さらに二〇〇八年の「リーマン・ショック」以後、オバマ大統領の登場にもかかわらず、アメリカはかつてなく大きな困難に直面して いる。同時に、このアメリカの現実をとらえるべきアメリカ研究もまた曲がり角にある。私見では、現今のアメリカ研究の困難は、研究対象としての「アメリ カ」の国民社会自体が、冷戦以後「グローバル化」と「(多文化主義の隆盛による)細分化」によって上下に引き裂かれているという事情によっているように思 う。今や長く一国研究として展開されてきた既存のアメリカ研究の枠組み自体が問われているのである。

今後のアメリカ研究に求められていることは、既存の研究の枠組みに安住せずに、一方でより深く長い歴史の文脈を探索し、他方でより広くグローバルな連関 のうちにアメリカを置いてみる必要があるだろう。二年前に発足し、CPASもその一翼を担うグローバル地域研究機構が、数年後には共同研究をいっそう活発 化し、国際的にもグローバル研究のメッカとなるように願っている。

駒場に来てはじめての教授会には一驚を喫した記憶がある。遠くに座る人の顔が見えないほど大きな部屋に、無数の同僚たちが隙間なくぎっしりと座り、しか もかなりの人々がしばしば席を立って人を探し、立ち話や私語のさんざめきも絶えることがない。ぼんやりと絵巻物に描かれた向こうに雲のかかる洛中図を思い 起こしながら、この三〇〇人は、知能指数の平均をとれば世界でも最も優秀な部類に入る群衆なのだろうなと妙な感懐を覚えたものである。

しかし、やがてそれ以上に驚かされることになったのは、「教授会」の種類の多さであった。私の場合だと、学部・研究科全体の教授会の他に、前期(歴史) 部会の教授会、後期課程の地域文化研究学科会議、地域文化研究科の専攻会議、それに小所帯ながらcpasの教授会も加わる。この計五つのレベルの教授会 が、それぞれ月に一回定例で開かれる。駒場に長い同僚たちには自明と見えるかもしれないこの事態は、私にとっては大きな驚きであった。

これはおそらく、教養学部・教養学科を持ちながら、同時に研究者養成機能も引き受けた駒場が、宿命的に背負い続けてゆかなければならない事態なのかもし れない。四〇年前、新入生の私は、恩師京極純一先生の教養演習ではじめて学問への扉の内側を垣間見せてもらった。先生の演習を選択しなければ、おそらく研 究者の道に進むことはなかったと思う。何重もの教授会において、何層もの学生集団のために丁寧に教育課題を設定し、実現を図ってゆく同僚たちは、学生たち に学問研究の扉を開くという駒場の伝統を担い続けているのだと思う。お世話になりました。

(アメリカ太平洋地域研究センター)

 

 

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