HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報544号(2012年1月11日)

教養学部報

第544号 外部公開

〈駒場をあとに〉駒場の18年

玉井哲雄

544-D-8-1.jpg秋の陽が美しい駒場のキャンパスでこれを書いている。ここに赴任したのは一九九四年四月だが、それ以降キャンパスの整備が進み、海外から訪れる知人の研究者たちにも素晴らしい環境と言われるようになって鼻が高い。建物の改築・新設が続きながら、大きな樹木が多く残されているのが貴重だ。

駒場にいた十八年の間に教養学部報に書いた記事を数えてみると、新入生向けの教員紹介アンケートや辞書案内などを除き、記録に抜けがなければ全部で七編あって、この「駒場を後に」が八編目になる。それを順にみると、駒場で何をやってきたかがかなり分かる。

最初が一九九六年一月の「駒場祭を終って」(399号)である。赴任二年目にしてこのような文章を書く羽目になったのは、この年、学生委員長をさせられたからである。学生委員は各専攻・系から毎年一人ずつ出すルールで、その中の委員長は専攻・系で順繰りとなる。来年は所属の広域システム科学系が委員長当番というときの学内委員割り当てを決める系会議で、当時の系長の平澤さんに強引に指名され、強く断ったつもりが最終的には引き受けさせられていた。

学生委員長として駒場祭は大した仕事ではないが、問題は一九九五年度が、その年度末に駒場寮が廃寮になることが決まっていたことである。寮委員会と学生自治会が、これに反対運動を繰り広げていたさなかであった。学生委員長を引き継いだのは一九九五年一〇月だが、直後の一〇月一七日に学部長による廃寮告示が予定されていた。一一号館一一〇一教室で学生九自治団体に市村学部長が告示を伝達するはずだったが、寮生たちに阻止された。学部長たちが当時学部長室のあった一〇一号館に戻ろうとすると、学生たちともみあいとなった。学部長はなんとか学部長室に入ったが、建物の入り口を取り囲む学生と、三鷹国際学生宿舎特別委員会(名前にかかわらず、この特別委員会は駒場寮廃寮問題を解決することを主目的とする)を中心とする教員とが外に残って言い合いとなった。

学生委員長として自分もその輪の中にいて、慣れないながら収束に向け努力した。結局、改めて学部長が交渉に応じるということになったが、その条件を巡る予備交渉が紛糾した。交渉と言ってもテーブルについてのものではなく、一〇一号館の西出入り口周辺で怒号も交えて行われたのだが、それが延々と翌朝九時まで続いた。これが自分にとって、その後長くかかわることになる駒場寮問題へのデビュー戦である。

一九九六年三月末の廃寮告知日までさまざまな事件に対応したが、学生委員長の任期はそこまでなので、それで解放されるものと思っていた。ところがこの間の働きが認められたのかどうか知らないが、引き続いて四月から特別委員会に入るようにと学部長から言われた。特別委員会の任期はなんと、駒場寮問題が解決するまでだという。

結局、特別委員会が解散したのは二〇〇一年八月の裁判所による強制執行とその後処理がすんだ、二〇〇二年四月である。というわけで、駒場に来てからの最初の七年間は駒場寮問題にずいぶん振り回されたことになるが、今となっては、特別委員会の仲間とともにある種の懐かしさをもって思い出すことができる過去である。

一九九九年に「ECCのシステム更新」(428号)、二〇〇〇年に「情報教育棟案内」(437号)という記事を学部報に書いているが、教育面での重要な仕事は前期課程の情報教育とそのためのシステム整備であった。着任直前の一九九三年に教養学部に予算がついて現在の情報教育棟ができ、教育用計算機システムが導入されたが、その後、教育用計算機センター(現在の情報基盤センター)と交渉の上、その運営管理をそちらに移管してもらった。その中で、一九九七年から数年間、教育用計算機センター駒場支所長を務めた。

 二〇〇一年に「情報学環って何?」(444号)を書いている。東京大学のさまざまなところにある情報関連の研究教育組織を文理にまたがって融合し、新しいものを作ろうという話が一九九九年初めに浮上した。その構想委員会に駒場から石田英敬さん、小林康夫さんとともに参加し、情報学環・学際情報学府という形で二〇〇〇年四月に発足してからは、流動教員として当初の三年間そこに所属した。

二〇〇三年四月に籍が駒場に戻った(情報学環に出ている間も研究室の場所は駒場だった)その年の一〇月から翌年二月まで、中期海外研修でロンドンとミラノに滞在したが、そこから戻るとすぐに、広域科学科長を、ついで広域システム科学系長をやらされた。その関係で、二〇〇四年には「広域科学のすすめ」(474号)と「情報学の学び方」(479号)という文章を書いている。

これまでの最後の寄稿は、二〇〇七年の「川合先生を送る」(500号)である。そして瞬く間に自分が送られる番になった。

教養学部報に書いたものを材料に話を進めてきたので、ここまで自分の研究について触れていない。この一八年間、研究面でも自分としてはそれなりに充実した仕事をしてきたつもりである。数えてみると、駒場にいる間に八〇回も海外出張に出かけているが、いずれも国際会議での発表やプログラム委員長、実行委員長などの務めを果たすためだった。自分の専門はソフトウェア工学というものだが、その分野における研究活動で国際的にもある程度、顔と名前を知られていると言っていいかと思う。また、研究室に迎えた学生の特徴は、社会人学生と留学生が多いことである。留学生は、中国、ブラジル、タイ、アメリカ、デンマークからなどで、多彩だった。このような研究活動ができたのも、駒場という恵まれた環境に、長くいることができたお蔭と感謝している。

(広域システム科学系/情報図形)

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