HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報545号(2013年4月 3日)

教養学部報

第545号 外部公開

〈駒場をあとに〉学恩と友情

船曳建夫

545-D-2-1.jpg駒場を去るにあたり、以下の年長、あるいは同輩の方々に学恩と友情を受けましたことを思い出します。お会いした順に、感謝の言葉を述べます。

学生時代、主として駒場で、この方々と出会いました。芳賀徹先生には、フランス語の美しさと蕪村の洒脱、駒場という空間の快活さを教わりました。教授会 室に閉じ込めてすみませんでした。平井啓之先生には「ラ・マルセイエーズ」と剛直さを学びました。パリの地下鉄で「全共闘は馬鹿だよ」と怒鳴られました が、返す言葉はありませんでした。由良君美先生には、学殖というものの奥深さを教わりました。その深い森には足を踏み入れることを躊躇いましたが、それも また学びの一つでした。

恩地豊志さんには、思弁力の違いを痛感させられ、違う道を模索するきっかけとなりました。水田恭平さんは、心の通い合った友人です。いまに至るまで怒り の対象を共有しています。山下晋司さんは、半世紀近く、互いに裏切ることのない同志でした。最近は立派になりましたが、若いころの揺れる山下さんが、懐か しく思い出されます。木村尚三郎先生には、フランスの宮廷と人生の楽しみを教わりました。その後も常に目をかけていただきました。渡邊守章先生は、遠く近 く、いつも対等であるかのように声をかけてくださいました。有り難いことでした。

土門拳さんには、文字通り可愛がって貰いました。いま思い出しても、土門さんには自分のやっている仕事が恥ずかしくなる、仰ぎ見る大きさがありました。 林達夫先生からは、文化人類学という学問のあることを教わりました。その林先生にお名前をうかがった山口昌男先生からさまざまなことを学びましたが、「東 大の教師になると、営業十年分得をする」と言われたのに、それを善用することは出来ませんでした。

戸井田道三先生には、病んでも老いても明るく生きることと、能楽堂での振る舞いを教わりました。中根千枝先生からは、社会人類学を学びました。私の英国 での勉学中にも、ピンポイントの、非常に適切な指導をしていただきました。また、私のキャリアの構築に、終始変わらぬ恩顧を受けました。また、それとは別 に、中根先生からは、人間の持つ迫力というものが観察できました。大林太良先生には、文献研究の手法と実践を学びました。学ぶことを愛している方でした。 それとは別に、大林先生からは、桁外れの知的能力というものが観察できました。

フランスとイギリスの遊学、留学中に、この方々と出会いました。ジョルジュ・デュメジルとは、最初から私たちの友情が短いものであることを感じていたことが、会っている時間を濃くしました。まだ友情の返礼が済んでいません。

ミシェル・フーコーとは、初めて会った時から、互いに気持ちを許し合って何でも話すことが出来る、魔法がかかっているようでした。おそらく彼の魅力が多 くの人にそう思わせたのでしょう。彼との友情の帳簿も赤字です。指導教授であったエドマンド・リーチ先生からは、論争と勇気を学びました。闘病中でありな がら添削をしてくださった私の原稿の束が、私の家の玄関の前に放り出された音は、いまも耳に残っています。マイヤー・フォーテス先生が、論敵であるリーチ 先生の学生である私に、道を横切ってやってきて、「書くことだけがお前を助ける」と教訓を与えてくれたことは、いまも胸を熱くします。両先生の厚情は、中 根先生の推薦によるものでした。

ケンブリッジ大の人類学者の、誰よりも巧みな英文を書くという評判を持つインド人研究者であるアンドレ・ベテイユ先生が、私の英語論文を直してくれまし た。リーチ先生の引退の後、指導教授を引き受けてくれたギルバート・ルイス先生は、私の論文すべての添削と、内容の検討をしてくださいました。天使的に素 晴らしい人格のルイス先生を、始めの数カ月、疑っていた私がいかに未熟な人間であったかを思い出します。ジャック・グディ(先生)については、何もない研 究室のフロアーに、異なるテーマの原稿が蟻塚のように十数カ所積み重なっていて、本人は、部屋の真ん中でチーズのカッティングボードを膝の上に、ボールペ ンで原稿を書いている、というのを見て、呆然としました。九二歳になるいまもなお、一年に二冊ほどの研究書を出している彼の生産力は、ほとんどファンタ ジー世界の「賢人」のようです。

駒場に就職したのちに、この方々に出会いました。古田元夫さんとは、組合で彼が委員長の時に副委員長を務めました。楽しい経験でした。任期が終わったと き、彼から貰った賞状は、私が卒業証書以外に持っている唯一の証書です。山内昌之さんとは、同年であることもあって、親しくさせていただきました。人文科 長の選挙の時に、投票用紙に「○○××」と書いたら、「○○××先生」と書くべきだ、と教わりました。節目節目で助けていただきました。横山正さんは、恐 るべき人であり、同時に愛らしい人柄です。京都は山崎の茶室、待庵に連れて行っていただきました。村上泰亮先生は、分野の違う、若い私に、話しかけてくだ さいました。おそらく若手の教師としてこの駒場に赴任すると誰でも感じる孤独感を見て取られたのだと思います。優しい方でした。

加賀山弘さんは、ただ一人、つきあいが続いている編集者です。その独特の雰囲気は、おそらく戦後の日本文壇の香りなのだと思います。野矢茂樹さんは、私 にとって、畏友です。基礎演習の授業がうまくいかず、気がついてみると同じ建物の数階上、彼の研究室までエレベータで上がってしまい、突然ノックをした私 を迎え入れてくれ、仕事の手を休めないままにも、相談に乗ってくれたことを感謝しています。長谷川寿一さんは、私を研究プロジェクトに入れてくれました。 これもまた貢献せずじまいでしたが、この負債は必ず返します。羽鳥和芳さんは、『知の技法』をふくめた四冊の本の編集をしてくれました。あのシリーズは、 センスと忍耐心の二つを兼ね備えた羽鳥さん無くしては続かなかったと思います。多くの人に触れられないまま紙幅が尽き最後の一人となりました。

小林康夫さんは、男の友人がほとんどいない私に、二〇年ぶりに出来た友人でした。軽度ではありますが、男性社会恐怖症である私が、唯一、二人で食事が出 来る男性であります。そしてあろうことか、南洋のリゾート地で、天蓋付きのシングルベッドに二人で泊まりもしたのです。その時は小林さんの方が、先に、極 度に照れてくれたので、私は内心を隠して優位に立てたのでした。必要はありませんが付け加えますと、交代で、一人がソファで寝ることにしました。小林さん にはすでに私の葬儀委員長を頼んでありますので、その長生きを祈ります。

学生時代から、合計で、四〇年間駒場にいましたが、思い出すのは楽しいことばかりであることに気づきました。ありがとうございました。

(超域文化科学専攻/文化人類)

第545号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報