教養学部報
第547号
〈本郷各学部案内〉 文学部:文学部という世界――永遠を垣間見るために
熊野純彦
銀杏並木に面した法文一号館入口を彩る
山茶花 人間は時間的に有限な存在です。むずかしいことではありません。だれもが、あるときに生まれ、与えられた時のあいだを生き、やがてこの世界から立ちさってゆきます。ひとはみな、そのかぎられた時の幅のなかで生を紡いでいる、ということです。
人間はまただれであれ、現在に生きるしかすべがない存在です。これもまた当たりまえのことがらで、いま・ここ以外に、ひとの生きる場所はほかにありません。それでは、人間はただ一定の時間のうちに閉じこめられ、現在のただなかに囚われているだけの存在なのでしょうか。
そうではないように思います。たとえば、こんなことを考えてみましょう。素数が無限に存在することは、古くから知られていました。ユークリッドの『原論』のなかに、美しい証明が見られます。その証明に私たちは、いま・ここでふれることができます。これは、信じられないくらい素晴しいことではないでしょうか。私たちひとりひとりが、じぶんに与えられた現在において、時の流れを超えたなにごとかにふれているのですから。
文学部は、思想文化、歴史文化、言語文化、行動文化の四つの学科からなっています。四つの学科はいずれも、置き換えのきかないこの現在と、いま・ここという限定された時空を超えたものとの、両者にかかわっています。もちろんそのかかわりかたはさまざまで、現在とそれを超越したものとの、どちらに主要な関心を懐くかをめぐっては、彩りがことなっています。
かわることがないのは、いま・ここで、現在を超えるものとかかわろうとする姿勢です。古いテクストにふれるとき、私たちはいま・ここを超えでようとしています。現在にはぞくしていないテクストの作者が、時のかなたから私たちに呼びかけてくるからです。いま・ここで問われている問題を、たとえば人間の行動という観点から根本的に考えようとする場合にも、私たちは現在を越える視点を必要とします。目のまえに広がる現実のただなかに埋もれているかぎりでは、現代のすがたについてすら、それを充分にとらえることができないからです。
ただ時の流れをさかのぼってゆくことが、問題なのではありません。現在の延長上に未来を先取りすることだけが求められているのでもないでしょう。時間をただ引きのばしてゆくことはいずれにしても、いま・ここの延長上に世界を見とおすことにすぎません。それは、じぶんがたまたま生まれおちた時代のなかで自足してしまうことに繋がっています。
求められているのはなんでしょうか。それはたぶん、現在のただなかにとどまりながら過去からの声に耳をすませ、未来への兆しを見てとることでしょう。それこそが、人間が時間をなにほどか超越してゆく途であるように思います。
永遠とはなんなのか、だれもほんとうは知りません。ただ、人間はむかしから、時間を無限に延長することではなく、現在に対していわば垂直に立ちつづけることを永遠の似像と考えてきました。文学部の学問はすべて、過去からの語りかけを聞きとり、未来への兆候に身をひらこうとするものです。しかも、いま・ここにおいて耳をすませ、目を見ひらこうとするいとなみなのです。その意味で文学部の学問とは、時間的な存在である人間が、時の流れを超えて、永遠を垣間見ようとするこころみにほかなりません。時間にぞくする存在である人間が、しかし時間を超えようとする、この魅力的ないとなみに参加してみませんか。
(大学院人文社会系研究科・副研究科長/倫理学)
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