HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報553号(2013年1月 9日)

教養学部報

第553号 外部公開

ポスト3.11は日本だけの問題ではない~ユニバーサルな災害対策とテクノオリエンタリズムへの封じ込めをめぐって~

藤垣裕子

553-B-1-1.jpg 東日本大震災の発生から一年半以上が経過し、プロアクティブな被災地復興まち作りのほか、国会、政府、独立委員会による三種類の事故調査報告書の公表、および今後のエネルギー政策の検討、そのための国民の意見の検討などがすすんでいる。日本学術会議では復興関連のシンポジウムのほか、メディアの果たした役割の検証、事故における学術の責任を問うシンポジウムも行われている。本稿ではこれらの日本国内の動きが、決して日本だけの問題ではないことを、具体的な意見を引用しながら示すことにしたい。

まず、エネルギー政策への市民参加の試みについてである。二〇一二年六月二九日、政府は今後のエネルギー政策を検討するために国民の意見を、従来型のパブリックコメントや意見聴取会に加え、「討論型世論調査」の形で収集することを公表した。この手法はスタンフォード大学のフィシキン教授らによって考案され、世界全体で四〇回以上実施されている。これを受けて七月七日から二二日まで、無作為に抽出された一般市民六八四九人に対して、通常と同様の世論調査を行った。そのなかから、八月四日に開催される「討論フォーラム」に参加する者二八五人を無作為に抽出し、討論課題についての資料を郵送し、学習してもらった。そのなかには、三つのシナリオ(将来、原発によるエネルギー供給を〇%にする案、一五%にする案、三〇%にする案)が示された。

八月四日、討論会の前におこなわれた意向調査では、〇%シナリオを選んだ市民は四二%であった。討論会参加の市民は、訓練されたモデレータの司会のもとで市民同士で議論を行う「小グループ討論」と、参加者が専門家に質問を行う「全体会議」に参加した。その討論会の最後に、再び調査をおこなったところ、〇%シナリオをを選んだ市民は四七%に増えた。この結果は八月二二日にプレス発表された。九月一四日に、エネルギー・環境会議は政府に「二〇三〇年までに原発によるエネルギー〇%」の方針を報告した。しかし、政府はこの方針を閣議決定の本文にはいれず、参考資料にとどめた。

このような経緯の報道のされかたは、メディアによって顕著に異なっていた。特に日本経済新聞では、なぜこのような結果がでたのか、対象者の性別・年齢の偏りのせいか、など、四七%という数値を脱構築する記事までのせた。秋入学のときは煽る記事ばかり書いていたのに、原発関係となると脱構築しはじめるこの態度には滑稽ささえ感じられた。もちろん、討論型世論調査という方法が最善だったのか、討論会前の資料の作り方はバランスが取れていたか、市民の選び方、討論会のときの専門家の選び方、など、今後検討すべきことは少なくない。しかし、これを実施したことの大きな意義の一つは、世界のひとびとが日本を見る目を変えたことである。

一〇月及び一一月の国際会議でさまざまな国籍の人の意見を聞く機会があったので、それを紹介したい。

「日本では、エネルギー政策に国民を交えた議論を行っている。フクシマは日本の公共政策をこんなにも変化させたのだろうか。」(米国:災害研究者)

「フクシマの影響はさまざまであるが、専門家への不信という点では一様性をもっている。フクシマは日本における公衆と行政の境界を書き換えつつあるのでは。」(米国:人類学者)

「欧州では、日本の今後の原子力がどうなるか、一般の人々が注目している。また、市民の抵抗が今後どのように政策に反映されるのかを見守っている。」(オランダ:社会学者)

「日本の震災後の原発政策が欧州の政策に与える影響について強い関心をもっている。」(フランス:社会経済学者)

「閣議決定はされなかったが、日本も二〇三〇年までに原発〇%を選んだのは画期的なことだ。」(ドイツ:報道関係者)。

これらを聞いていて、ポストフクシマは決して日本だけの問題ではないことを実感した。今、日本の原子力関係の動向は世界中から注目されているといっていいだろう。

次は、事故分析についてである。今回の事故は、欧米の国々に二種類の反応を生んだ。一つは、技術的に発達したハイテク国である日本で起きた事故であり、同様の事故が原子力発電所をもつどの国でも起こる可能性があるため、原子力発電所の安全性を根本から問い直さねばならない、というものである。ドイツでの二〇二二年までに原子力全廃という決議はこれに基づいている。たとえばドイツの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」報告書(二〇一一年六月)には、「今回の事故がハイテク大国・日本でおきたことを特に重視している」と書かれている。

そしてこの事実のために、「大規模な原子力事故はドイツでは起こりえない」という確信をもてなくなったと告白しているという。高い技術力をもった日本は、原発の安全性を判断する上での重要な規準であったことが示唆される。それに対しもう一方の見方は、この事故を「メイド・イン・ジャパンの災害」として捉え、「日本固有の」災害として捉える見方である。とくに、国会事故調査報告書で黒川清委員長が同様の発言をしたこと(The National Diet of Japan, The Official Report of The Fukushima Nuclear Accident Independent Investigation Commission, Executive Summary, p9)が、この見方の証左として海外でも使われている。後者の見方は「テクノオリエンタリズム」と国際会議で形容された。

テクノオリエンタリズムをとると、欧米は、あれはグローバルなハイテク国でおきた事故ではなく、「日本固有のこと」であり、俺たちには関係ない、として片付けることができるのである。

これは頭の痛い問題である。そもそもオリエンタリズムとは、主に文学、歴史学、文献学、社会誌など文系の学問において見られるある傾向、つまり知識というものが基本的に非政治的であるという認識が、「知識の生み出される時点でその環境としてある、たとえ目には見えずとも高度に組織化された政治的諸条件」を覆い隠すものとなっている傾向を分析するために、E・W・サイードが用いた言葉である。そしてそれら知識のなかに、オリエント(西洋からみた東洋)への偏向したものの見方が含まれているとする。しかし、科学技術はそれとは異なる普遍的なものと考えられてきたため、オリエンタリズムの考察からは外されてきた。

しかし、黒川氏がメイドインジャパンの災害といって、セルフ・オリエンタリズム的発言をしたことは、果たして科学技術のどこまでが普遍的なもので、どこから先が文化依存的で東洋的なものであるのかについての問いを我々につきつける。ノーベル賞や自然科学系の国際雑誌のインパクトファクターに象徴されるように、科学技術の知識は普遍的なもので、どんな文化をもった国でも、自然科学に関する知見は普遍的に蓄積されうると考えられている。たとえば日本の電子と米国の電子とロシアの電子が異なったりはしない。

しかしその科学技術の知識を生み出す活動は、とりもなおさず人間によって営まれており、科学活動を支える制度、研究環境、関連する法、背負っている歴史は国によって異なる。科学技術リスクを管理する上での知見やシステムは、人類普遍のものであるのか。それとも文化に依存するものなのだろうか。

一つの考え方は、科学は人類普遍、技術には文化依存性が入り込み、リスク管理に至っては文化依存性が非常に強いという段階説をとることである。しかしここで注意したいのは、日本固有の災害といった瞬間に逃げていってしまうものがあることだ。こういう事故は、米国でもドイツでもフランスでも起こりうる、という認識をもち、民主主義国家での事故として一般化することによって、今回の事故の教訓を世界の人々と共有する努力がとても大事であるのに、そのような努力をしなくてすむ逃げ道をつくってしまうのである。

政治思想の専門家ジョン・ダンは、そのようなテクノオリエンタリズム的発想に対し、フクシマは近代民主主義国家が抱え込んだ普遍的問題であるとして、以下のように警笛を鳴らす。「社会から隔絶し、視野が狭く、利己的な世襲政治家からなる政界環境。そして大多数の市民からすれば、一層時代遅れの家系によって権威づけられている官僚国家に民主主義が依然従属していること。だがこういった日本の政治環境は、すべての現存する代表制民主制下の政治にとっての中心的問題をより赤裸々に表現しているだけである。そして日本という国家の深刻な失敗は、官僚機構の失敗だけでなく民主国家としての失敗であり、冒すことを選んだリスクの規模を認識し、それに備えることへの失敗なのである。」(アスティオン、2012)

日本人はよく「これは日本固有の問題であるが、外国では……」という論を採りがちである。しかし、そのような言葉がまた、外国人からの日本の見方を左右することにもっと自覚的であってもよいのではないか。そして原発事故のメディア報道および私たちは、原子力技術に代表される日本の科学技術をユニバーサルなものとして扱った(あるいは今後扱っていく)のだろうか、それともテクノオリエンタリズムを助長する方向で行われた(あるいは今後扱っていく)のだろうか。詳細な検証と省察が必要である。

(広域システム科学系/情報・図形)

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