HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報556号(2013年5月 1日)

教養学部報

第556号 外部公開

〈本の棚〉哲学・日本哲学・日本語哲学

石井剛

野家啓一監修、林永強・張政遠編
『日本哲学の多様性――21世紀の新たな対話を目指して』
〈世界思想社、2700円〉

皆さんは、学部四年間の全教育課程を英語だけで習得できるプログラム(PEAK)が駒場にあるのをご存じだろうか。英語ができないわたしが言うのはおこがましいことだが、わたしは、英語による日本研究が日本で行われているということに実はこっそりと期待している。坂部恵は、「いつか来た道」(『哲学』第57号、2006年)というエッセイの中で、英語による発信に志すことが、同時に日本語による哲学を豊かにすると述べている。一見晦渋な論理ではあるが、他者の言語に置き直す努力なしには、自らの文化を語るコトバは鍛えられず、その結果、哲学は日本語使用者の骨や肉にはならないというのは、とても説得力がある。駒場にこのようなコミュニティができたということは、日本文化の自明性が否応なく崩される一角ができたということで、その内外で日本語で紡がれるコトバのひとつひとつを問い直し、語り直すチャンスの「きざし」が生まれたということだ。これは絶好のチャンスだと言わざるを得ない。

本書の編者である林永強氏は、そのPEAK教員として日本哲学を教える。日ごろ日本語を使って生活する彼は、授業では英語で講義する。彼自身はしかし、広東語を母語とする香港人だ。さらに、彼の国籍は中国ということになっている。だが、一国二制度のもとで高度自治が保証されている香港では、独自のアイデンティティが形成され、パスポートだって一般の中国人とは異なる。にもかかわらず、彼は中国の共通語である普通話(北京語)も操る。多重なアイデンティティに支えられた多言語使用者の彼を前に、「日本語で哲学はできない」とか、「日本文化を他言語に翻訳などできない」などとは恐れ多くてとても言えない。そこに深みがあるのかという問いもあるだろう。

それを頭から否定するつもりはない。だがたいせつなことは、「慈悲」を「love」と訳すような解釈の冒険が、思考とコトバを鍛えるために不可欠だということだ。そのような冒険は、まさに一種の批評として、なによりもコトバの使い手の倫理と責任につながる。その責任を引き受けないことには、哲学の母語化は望めない、坂部はそういうことを言おうとしていたとわたしは勝手に思っている。

さて、本書は、日本語母語話者と非日本語母語話者が一緒に日本哲学の可能性を論じた「共同空間」だ。林永強氏は、異なるものへの「同化」と本来のものからの「異化」とは相互浸透的であり、必然のプロセスであると言う。同一言語の内部で語りが完結していると想像すること自体が間違っているというのだ。言語の壁を「超える(trans)」ことでコトバは豊かになる。そういう歴史を日本哲学はすでにこれまでにも経てきたと彼は言う。その上で、本書は、「哲学」という翻訳語が東アジア漢字圏に生まれて以来の一つの系譜として日本哲学を取り上げ、さまざまな言語・文化的背景を持つ論者たちがそれを語る。

日本語を母語として人文学に志す人々は、本書に何らかの応答を試みるべきだろう。中には、西田幾多郎の哲学が日本の帝国主義に抵抗する東アジアの人々を見落としたまま大東亜共栄圏の原理を提供したとする厳しい指摘(許祐盛氏)も含まれている。オリエンタリズムに乗っかったナルシシズムでは本書に向き合えない。また、本書への応答が日本語で行われるとしても、わかり合える母語話者同士の気楽な対話にはなり得ない。翻訳的に母語を使うことでしか、本書の「共同空間」には参入できない。いや、この「共同空間」が本質的に多言語的である以上、そうすることが応答の倫理である。

本書の題名の「日本哲学の多様性」は、実質的には「日本哲学」を語る主体の言語・文化的多様性を指しており、肝心の「日本哲学」がどれほど多様で豊かなものなのかはじゅうぶんに言い得ていない。だが、「日本哲学」が多様で豊かなものになるためには、日本語による哲学のコトバがもっと豊かであることが必要で、そのためにこそ外語(母語以外の言語)による思考が有効なのである。

そうであれば、日本語を母語としている諸君にはどんどん外語を使って欲しい。駒場には英語以外にも多くの外語が用意されているのだから。

(地域文化研究専攻/中国語)

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