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第560号 外部公開

複雑生命システム動態研究教育拠点発足記念: イーコリ君の悩みと遍歴

金子邦彦

560-B-1-1-01.jpgイーコリ君(1)は悩んでいた。自分で増えていく細胞モドキができたというのだ。よくきくと、油の膜にいくつかの分子を入れただけみたいだ(2)。それって生命なのか、と自問するうちに、遂に
「ねえ、お姉さん、僕たちって、ほんとに生きているんですかね。だって僕たちだって所詮、分子が集まって増えているだけでしょ」
「でも、私たち、あのABの悲劇を生き延びたじゃない(3)。兄弟のほとんどが死んじゃったというのに。それよりお腹が 減 っ 、 、 、 」
「お姉さん、しっかりしてくださいよい、起きて、起きて。 。あれ、眠っちゃったのかなあ。生きてますよねーー(4)」
 困ったなあ。あ、ディクティちゃんだ(5)。
「ねえ、どう思います」
「だって、それはえさがなくて元気がなければ眠ったり、死んじゃったりするじゃない。それよりわたしもお腹減っているのよ、食べちゃうわよ」
「やめてくださいよ。あれ?」
ディクティちゃんは仲間と集まって(6)、ひとまとまりの塊になって動きだす。うーん、どうして自分たちはこういうことができないのだろう、社会性がないのかなあ。孤独感に苛まれたイーコリ君、なんとか東大にはいり、駒場の「複雑生命システム動態研究教育拠点」にたどり着く。日本にできたばかりの4拠点のひとつらしい、えー、「生きていることの動的状態論」をつくって「生命とは何か」に答える? これってまさに僕の悩みを解決してくれるんじゃないかしら。
「K先生(7)、僕って生きているんでしょうか。増えていくだけではどうも実感がなくて」
「そうねえ、でも君は、これまでいろんな環境にもまれながらもなんとか適応して、自分を保ってきただろ。そういう可塑性と安定性(8)は生きている証じゃないかな」
「じゃあ、この拠点にくれば、その証がわかるようになりますか」
「そうねえ、まず、駒場にオープンした統合自然科学科に入るのはどうかな。拠点とともに生命動態プログラムってのも始まるようだし。1年生なら体験ゼミもあるらしいよ」
「でも、この拠点は数理と生命を融合して、っていうのですよね。僕、熱力学君とか力学系さんとかと、ああいう頭でっかちな人たちと仲良くないんですけど」
「まあ、あの学科は親身な先生も揃っているし、大丈夫だろ。それより、君はどうも思いつめるとこがありすぎるね。もっとゆらゆらしていたほうがいいんじゃないかな。揺らいでいるほうが進化しやすいって研究もあるようだし(9)」
「え、、っとぉ、あと、生命動態システムの研究ってこれから就職にもいいって聞いたんですけど……」
「おいおい、そりゃそうかもしれないけど、君はまず核を持つのが先じゃないかな(10)」
(つづく)

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●予告編
cAMPの波にもまれて健気に生きていく「ディクティちゃんの打ち明け話」、みずからの限界に悩みつつも生命動態に向けた新たな展開を探る「熱力学君の憂鬱と旅立ち」、微細加工で作られた密室でおきる連続殺菌事件をイーコリ君が解く「イーコリ君の冒険と推理」、兄弟なのに全く性格も違い、兄は計算機、弟は駒場の実験室の中でしか生きられず、でも共に生きているのかを悩み続ける「プロトセルの兄弟」――乞うご期待。

●注
(1) E ColiはEscherichia Coliの略。大腸菌。本拠点の研究でもしばしば用いられる。
 作画:太田邦史(生命環境科学系/生物)
(2) 駒場の複雑系生命システム研究センターでは、栗原顕輔研究員、菅原正名誉教授、豊田太郎准教授らが、触媒分子を封入した油の膜で、複製する人工細胞の構築に成功。これを更に「生命らしく」することは本拠点のテーマのひとつ。
(3) 抗生物質(AntiBiotics)がはいってきて、多くのバクテリアが死んでも、一部は生き残る。これが遺伝子の違いでなく、細胞状態の揺らぎによるということを若本祐一准教授らが示している。本拠点のテーマのひとつ。
(4) バクテリアなどは飢餓状態に置くと、ドーマントという活性を抑えた状態になる。このような「相」変化の解明も本拠点のテーマ。
(5) Dictyostelium Discoideum。細胞性粘菌。アメーバ。本拠点の研究でもしばしば登場。ちなみに大腸菌は餌の一つ。
(6) 粘菌は通常は単細胞で生きているが餌がなくなると、集まって、最終的に胞子をつくる。この集合化過程を解明した澤井哲准教授は本拠点で、多細胞生物の根源に迫る。
(7) 駒場の「複雑生命システム動態研究教育拠点」代表、金子邦彦教授のことらしい。複雑系生命科学を主唱する理論物理の研究者であるが、最近ではむしろ作家、円城塔の(注の注i)もと指導教員として知られている。
(8) 可塑性、安定性、そして活性、といった、生命の基本的性質を、細胞内の増殖速度、遺伝子発現パタンなどの定量的測定と結びつけて理論化するのは拠点の大きな目標。
(9) 理論物理の考えも用いて、進化しやすさを細胞状態の揺らぎやすさ、変化しやすさと関係づけて理解するのも本拠点のテーマ。
(10) バクテリアなどの原核生物は、きちんとした核を持たない。ちなみに学生の皆さんも広い分野を学ぶ中から、きちんとした自分の核を形成してほしい、某先生談。

●注の注(i)
作家(1971-)。作品に『烏有此譚』『道化師の蝶』『<I>Self-ReferenceENGINE</I>(*)』(*英訳も出版されていますので留学生の方にもお薦め)など。筆名の由来は『カオスの紡ぐ夢の中で』所収の小説。なお、本解説が自己言及的かつ注が多いのは円城塔氏の小説の影響とみる向きもある。

●(解説) これまで、駒場にある広域科学専攻では、「複雑系生命システム研究センター」を立ち上げて、「生命とは何か?」という難問に挑んできました。本年一月、それを発展させた、研究教育拠点の申請が文科省に認められ、活動が開始しました。細胞や細胞集団の状態の揺らぎやダイナミクスの定量的計測、更には生命システムの構成や進化の実験を通して、生命が普遍的に有する性質、特に可塑性と頑強性を理解しようとしています。これにより、細胞そして細胞集団がひとまとまりの状態を維持、成長、進化していくための論理――「生きていることの動的状態論」――を構築しようとするものです。また、その現場に大学一年生、学部生も参加させることで、数理、物理、化学、生命といった分野の壁を超えた、柔軟で頑強な学生を育てる場をつくろうとしています。拠点の研究、教育内容について詳しく知りたい方は、http://kyoten.c.u-tokyo.ac.jp をご参照下さい。注に登場した以外では、総合文化研究科から太田邦史、嶋田正和、佐藤守俊、福島孝治、沙川貴大、石原秀至、更には生産研究所から竹内昌治、合原一幸、小林徹也、平田祥人の各先生(敬称略)が参加しています。

(相関基礎科学系/相関自然)

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