HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報564号(2014年4月 2日)

教養学部報

第564号 外部公開

熱き血潮に触れよ

石井洋二郎

564-A-1-2.jpg柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君

新入生歓迎の辞でいきなり「柔肌」はないでしょう、と突っ込まれそうですが、まあ大目に見てください。与謝野晶子の『みだれ髪』に収められたこの歌は、一時期テレビコマーシャルでも使われていた有名な作品なので、たぶんご存じの方が多いと思います。

字面の意味は説明するまでもなく明らかですし、そこにこめられた心理的な機微についても余計な解説は不要でしょう。「女と男の関係を一方向的にとらえたこんな歌は男女平等の精神に反する」などといった非難の声もちらほら聞こえてきそうですが、まあそんな野暮なことは言わないで、と軽くいなしておくことにします。

さて、皆さんが東京大学でこれから触れようとしているのは、「柔肌」ならぬ「学問」です。そしてあらゆる学問には、先人たちが通ってきた「道」があります。たとえば経済学には経済学の道があり、生物学には生物学の道がある。これは右の短歌に出てくる「道」とはもちろんニュアンスの異なるものですが、どんな分野に進むにしても、まずはこれまで踏み固められてきた道筋をたどり直すことが求められます。

言うまでもなく学問の本来的な目標は、その先に自分だけの新たな道を切り拓くことですが、その段階に達するのはまだ先の話で、さしあたりは一定の時間をかけて相当の距離を踏破しなければなりません。皆さんがいま踏み出そうとしているのは、その長い道のりの第一歩です。

けれども「道を歩く」という行為はともすると、単調で無味乾燥な営みになってしまいがちです。たとえば「求道者」という言葉から私たちが思い浮かべるのは、あらゆる世俗的な煩悩や欲望を捨て去って、ひたすら自己研鑽にはげむ禁欲的な人物像でしょう。それはそれで立派なことですが、人間は果たしてそれで幸福になれるものでしょうか。

私はそうは思いません。学問とは何よりもまず、楽しいものでなければならない。沸き立つような情熱をめざめさせ、みずみずしい感性を刺激し、未知なるものへのあこがれをかきたてる、心浮き立つようなものでなければならない。

確かにこれまで蓄積されてきた膨大な知識を身につけることは、それだけでも大変な労力を要する作業であり、レベルが上がれば上がるほど難行苦行の様相を呈してきます。しかしそうした努力はいつか必ず、成長の実感を与えてくれたり、発見の驚きに結びついたりして、私たちの精神を高揚させてくれるものです。人間が今日まで学問を放棄することなく営々と継続してこられたのも、それが刻苦勉励の忍耐と引き換えに、これに報いて余りあるほどの大きな喜びをもたらしてくれるからにほかなりません。

そんなきれいごとなんかどうでもいい、自分はとにかく希望の進学先に行けるだけの成績がもらえればそれでいいのだから、という人もいると思います。そうした考え方を否定するつもりはありません。入学試験をはじめとして、実社会ではいたるところで競争が行われていますし、現に本学にも「進学振分け」という独自の制度があることはご存じの通りです。現行の方式については見直しの作業が進行中ですが、いずれにせよどんな競争もある程度までは数値化された比較を参照せずには成り立ちませんから、少しでもいい点数を取ろうとするのはむしろ当然です。

ただし点数というのはあくまでも、制度上の選別システムを作動させるための便宜的手段であり、いわばこのメカニズムを根拠づけるためのフィクションにすぎないのであって、それ自体が実体化されたり目的化されたりするべきものではないということを、忘れてはなりません。いくら多くの知識を詰め込んでみても、いくら試験で高い点を取ってみても、学問の「柔肌」の下を脈々と流れている「熱き血潮」に触れるのでなければ、せっかく苦労して大学に入った意味はないでしょう。

リベラルアーツの理念に基づいて教養学部前期課程で展開されているさまざまな授業には、担当教員の豊富な知識や経験が反映されているだけでなく、それぞれに違ったスタイルではあれ、学問にかける気魄や情熱も注ぎ込まれているはずです。教室で、あるいは教室以外の場所で、どうぞその熱気を体全体で受けとめてください。そして「学問の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 点を追う君」などと言われないように、くれぐれも目先の利害に惑わされることなく、高い志をもって勉学に励んでください。

皆さんがこれから駒場キャンパスで過ごすことになる毎日が、「楽しい学問」と出会うまたとない機会になり、「悦ばしき知」(ニーチェ)にあふれたものになることを願ってやみません。

そうそう、教師の悪いくせでつい「道を説く」ことに夢中になり、本来ならば最初に言うべきことを忘れていました。
新入生の皆さん、入学おめでとう。

(教養学部長)
 

第564号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報