HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報566号(2014年6月 4日)

教養学部報

第566号 外部公開

〈本の棚〉寺澤盾著『聖書でたどる英語の歴史』

大堀壽夫

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〈大修館書店、2200円+税〉
英語学・言語学に関わる者として、「日本における研究が世界の先端水準にある分野は?」と聞かれたら、いくつかの分野がすぐに思いつく。しかし、その中で最も伝統のある(すなわち先端で貢献してきた歳月の長い)分野といえば、最有力候補は英語史である。そして学生諸氏の愛校心を少しくすぐるならば、その中心の一つは東京大学、とりわけ古き良き時代の駒場であった。そうした伝統の上にたち、なおかつ新しい研究成果もふんだんに取り入れて、端正な「ですます」体で英語の歴史的展開を語るのが本書である。題材は聖書。西洋文化の根っこともいうべきテキストについての理解と、英語という国際語の背景についての理解、この二つを共に深めることができるわけだ。

表紙を開く。いきなり私の大好きなクラナッハである。聖書のモチーフによる西洋絵画が紹介された後、本文に入る。年表と地図が巻頭に置かれ、英語史の全体的な流れと聖書の舞台がセットされる。

序章の「隠れたベストセラー 聖書と英米文化」に続き、第一部 「英訳聖書への誘い」(第1-5章)は「マタイ伝」から有名な「主の祈り」を取り上げ、具体的なテキストに即して英語の変遷をコンパクトに見渡している。現代のわれわれでも大体わかる近世初期から始めて、古英語まで時代をさかのぼる構成も親切だ。

第二部「聖書で学ぶ英語の歴史」(第6-11章)は絵画、文学、日常の言い回しなどで出会う有名なエピソードを取り上げている。楽園追放やバベルの塔など、さまざまな描写が現代英語で提示され、続いて重要語句が各時代でどのように表されたかが説明される。私が学生時代に英語史の授業をとった時は、教授自ら「無味乾燥」と言う講義で(ただし、そう言う時にはきまって味のある表情を見せてくれた)、事項の暗記と活用の反復にあけくれたものだが、本書は違う。綴りと発音のギャップはどこから来るのか? やたらと不規則なbe動詞の活用は元々どんな組織だったのか? ドイツ語にもフランス語にもない「進行形」はいつごろから聖書の英語に現れたのか? このような問いに解を出すための糸口が、本書ではしっかりと文脈の中に位置づけながら示される。ある意味、外国語の単語を覚える時と同じで、ストーリーの中で覚えたものは忘れない。だから後々生きる。本書が教養書として優れている点の一つはここにある。

英語史の入門書などでは、「内面史」・「外面史」という区別がしばしばなされ、どちらかに重点を置くことがある。しかし言語体系(=内面)と社会・文化(=外面)が互いに影響し合いながら変化していくことは間違いない。とりわけメディアの発達した現代であれば、ミクロな変化をリアルタイムで観察できる。

第三部「現代英語訳聖書」(第12-15章)は現代英語の多様性について、進展いちじるしい歴史的社会言語学の成果を取り入れつつ書かれている。例えば皆さんは「ベーシック・イングリッシュ」というものをご存知だろうか? これは諸刃の剣であると思われるが、それがどのような特徴をもち、われわれ非母語話者の英語コミュニケーションといかに関わりうるかを考えることは重要だ。他にもピジン英語の聖書、社会的差別と関わる表現の現代における扱い(いわゆるポリティカル・コレクトネス)、性差の中立化、など興味の尽きない話題が取り上げられている。第三部は素材が現代の英語からとられているぶん、各自が時代の課題と向き合って考えるきっかけを提供してくれる。

本書の各章にはさまざまな小課題やコラムが配置されている。どれも英語の歴史において重要なトピックばかりである。巻末には「付録」として課題の解答例の他、学習者のための丁寧なガイドがついている。著者は2008年に『英語の歴史 過去から未来への物語』(中央公論新社)という新書を出版している。こちらは時代ごとの変遷を軸としたスタンダードな概説である。本書と共に、二冊を往復しながら読み込めば、めったにない豊かな読書経験が得られることは間違いない。

(言語情報科学専攻/英語)

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