HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報567号(2014年7月 2日)

教養学部報

第567号 外部公開

小林俊行さんの紫綬褒章ご受章に寄せて

古田幹雄

小林俊行さんの業績を顕彰してこのたび紫綬褒章が授与されたとお聞きし、小林さんのお仕事が専門の枠を超えて認知され、あるべき姿として評価されたことを喜ばしく思います。おめでとうございます。

小林さんが研究をされている分野は純粋数学と呼ばれます。しかし、振り返ると、自然界の法則は数学の言葉で書かれており、工学的な機構も数学的メカニズムとして把握可能です。むしろイデアの世界か現実の世界かと問うことがあまり意味をもたないような広大な領野があり、そこで繰り広げられる現象を日々相手にしている、というと、数学の研究者たちの実感により近いかもしれません。そこには確かに不可思議な現象があり、予測されない謎がここかしこに潜み、符牒めいた痕跡が見られ、隘路を幾重にもくぐった先に初めて見晴るかすことができる眺望があります。

かつて、レーウェンフックが自作の顕微鏡を携えて身の回りの対象に好奇の目を向けたそのとき、微生物学という学問そのものが誕生しました。そして小林さんがご自身の持つ、微積分と線形代数と幾何学の基礎的かつ強靭な力を以て、解析・代数・幾何にまたがる「対称性と連続性」の現象に、静かな、透徹した、深い眼差しを向けたそのとき、ひとつの新しい数学が誕生しました。

「人真似でない何かを創造したいと思い始めてから10年ほど経った、25歳のときでした。」
(小林俊行 学術月報2007年5月号)

小林さんの数学の一部、小林さんが二〇代で創始した理論の一側面を、私にできる範囲で説明を試みます。幾何学において距離の概念は基本的な出発点であり、通常の幾何学は距離を土台として展開されます。一方たとえば特殊相対論において、光の軌跡は、距離と似た「ミンコフスキー計量」によって「計量がゼロとなる軌跡」として記述されます。

小林さんが正面から対象としたのは、このミンコフスキー計量の高次元化を、方向ごとに規則的に変化させつつ一様に湾曲させ、さらにもう一段階、はるかに一般化した幾何学でした。この一般化は、「連続的対称性」と言い得るものが存在するとき、それに必ず付随して現れる幾何学として定式化されます。「連続的対称性」の研究は「リー群」の理論として、一九世紀の終わりから研究され、現在までに膨大な蓄積があります。しかし、小林さんによる、幾何学的かつ根源的な考察が、いまひとつの新しい展開の契機となりました。

宇宙の時空がいわば循環的に有限であり得るのか、それとも仮想的な始源と終末との間に延びる無限性を必然とするのかは、数学的には幾何学の問題とも関係します。小林さんは、上の「はるかな一般化」において、有限の時空と無限の時空との相克に相当する現象を解き明かす理論を構築しました。その理論のインパクトは、次第に輪を大きく広げ、周辺の異なる分野の専門家たちの関心を引き付けました。その様は、数学の大きな歴史の中でひとつの潮流が渦巻く鮮烈な一場面とも見えます。

小林さんご自身がさらに複数の輪を重ねましたが、それら複数の互いに無関係ではない理論群の構成要素としては、微分方程式と関係する無限サイズの行列たちのシステマティクな振る舞いの考察、CTスキャンの理論的基礎に用いられる解析学などがあり、こうした既存の諸理論の様相も同時に塗り替えておられます。

「自分が生み出したものが、自分自身を超えて普遍的なものにつながってゆくことをふと感じる時、学者としての喜びを覚えるとともに、対象とする学問の深淵さに厳かな気持ちになります」
(小林俊行 リガクル02より)

基本的な理解を根底から掘り下げる仕事は、大きな射程を持っています。わかりやすい例としてはニュートン・ライプニッツによる微積分学の構築はそのようなものでした。見たことのない視界が開け、一歩ごとに、正しい問の立て方を突き詰め、空白に補助線を引き、問を照射する解を構成し、その中で物事の見え方が変わっていくような行為。学問の専門化と細分化が進み、またともすると短期的な成果が求められる現代では、そのような仕事を行うのは容易くなく、また他分野からは見えにくい傾向があります。しかし小林さんの業績はこのような角度からこそ評価される性格のものと思われます。

現在、小林さんが中心となり、高木レクチャーと呼ばれる数学の講演シリーズが東大と京大とで交代で開催されています。世界中から最高の研究者たちを招待し、彼らのもつ最上のものと日本の若い方たちが直接ふれる機会を作ること。これが小林さんの考えておられることだと思います。

「高校を卒業したばかりの私にとって、優れた学者の深い造詣や何か新しいものを生み出そうとする心意気を間近に感じた衝撃は忘れられない。今ふりかえってみると、こういった体験はその後の私の人生の大切な糧となっている。」
(小林俊行 「時に沿って」学部報506号)

小林さんは、学生のひとりひとりを尊重され、常に人間としての敬意をもって接する方でもあります。この「教養学部報」の読者の中にも思い当たる方たちがきっとおられることでしょう。そして、小林さんの数学と小林さんのお人柄とは、学問における姿勢を軸として、深く結びついている印象が私にはあります。なお私は小林さんの内なる厳しさに接した経験も複数回あることを申し添えます。

最後に。学生のみなさん、バングラディシュからの留学生であったサルマ・ナスリンさんのエッセイ「ある数学科の学生の物語ですが読んでみて下さいますか?」を是非ご覧になってください。「心に残る最高の先生」(http://faculty.ms.u-tokyo.ac.jp/~surinews/news2006-2.html#essay)でウェブ検索するときっと行き当たります。

(数理)

 

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