HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報567号(2014年7月 2日)

教養学部報

第567号 外部公開

〈本の棚〉齋藤希史著『漢詩の扉』 詩は、急いで読む必要はない

菅原克也

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〈角川学芸出版、1680円〉
齋藤希史さんの著した「漢詩の扉」。いかめしい扉ではない。漢詩という城塞、いや楼台に穿たれた小ぶりで瀟洒な扉。きっちり寸法を測った、かっちりとした造りの扉。そんなおもむきである。

扉から通じる漢詩の世界から選ばれるのが王昌齢、王維、李白、常建、杜甫、岑参、白居易、杜牧、李商隠ら九人の詩人。いずれも唐代の詩人たちである。

詩人の伝記が綴られるわけではない。語られるのは、あくまで漢詩じたいが開いてくれる世界。文字一つひとつの意味にはじまって、詩のテクストそのものが解き明かされてゆく。

漢詩を読むのは、なかなかむずかしい。地名や人名、典故をたしかめるためにはそれなりの手続きを要する。なかなか一筋縄ではゆかない。長い回り道を強いられることもある。

ただし、それもまた愉しい。いや、愉しいに違いないと思わせる気配が、本書の記述のあちらこちらから漂ってくる。漢詩を読むにあたって求められる学力、検索力は、漢詩を深くあじわう力に直結する。いろいろなものに耐えて、研鑽を積んでゆくと見えてくるものが確かにあるのだろう。そんなことを納得させてくれる。学問は愉しいのだ。

さて、齋藤さんは漢詩を引くにあたってちょっと工夫をする。二句を一行とし、訓読は別に添えるのである。これがよく利く。まずは漢字そのものの連なりに注意が向くからである。その上で、各章の扉の裏に収められた版本の影印に立ち戻ると、訓読を伴う漢詩とは別の世界が開けるように感じられる。たとえば、岑参(しんじん)の「磧中作」はこんな具合。

走馬西来欲到天辞家見月両回円今夜不知何処宿平沙万里絶人煙

以下、齋藤さんによる改行なしの訓読。

馬を走らせ西来して天に到らんと欲す、家を辞して月を見ること両回円かなる。今夜 知らず 何れの処にか宿せん、平沙万里 人煙を絶つ。

これを齋藤さんはこんな風に現代語訳する。

西へ西へと馬を走らせて天に到るかのよう、家に別れを告げてから月が満ちるのを二度ほど見た。今夜はどこで宿営を張るのか、万里に広がる沙漠に人家の煙は絶えて見えない。

漢詩の訓読文は、しばしばそれじたい理解が難しい。この詩は比較的分かりやすく、訓読でもおおよその意味は了解できるが、このように現代語訳されてみるとさらに安心できる。ほかの詩についても、読者への配慮を感じさせる現代語訳がありがたい。

私自身の感想を記すと、もっとも感銘を受けたのが、杜甫の七言絶句「江南逢李亀年」(江南にて李亀年に逢う)を論じた章。転句の「正是江南好風景」(正に是れ江南の好風景)にあらわれる「風景」ということばについて、これが風と光を意味することを確認した上で、その背後に拡がる世界を記す。やや取っつきにくい起句「岐王宅裏尋常見」(岐王の宅裏 尋常に見)と承句「崔九堂前幾度聞」(崔九の堂前 幾度か聞く)も、齋藤さんの解釈を読んだあとはよく分かると思えてくる。結句「落花時節又逢君」(落花の時節 又た君に逢う)に深い余韻が残る。いい詩だな、と思う。

齋藤さんは言う。「詩は、急いで読む必要も、大量に読む必要もない。」たしかにそうだ。これに付け加えるなら、詩は何度も繰り返して読むのがよい。そしてこの本は、ゆっくり詩が読める本として、再読三読に耐えるのである。

(超域文化科学専攻/英語)


 

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