HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報568号(2014年10月 8日)

教養学部報

第568号 外部公開

〈本の棚〉酒井邦嘉編/曽我大介/羽生善治/前田知洋/千住博 『芸術を創る脳――美・言語・人間性をめぐる対話』

小川桂一郎

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〈東京大学出版会、二七〇〇円〉
音楽の美しい調べや歯切れのよいリズムは、誰をも幸せにしてくれる。言葉の話せない幼児でも、歌に合わせて踊り出す。人の集まるところで歌が始まると、一瞬にしてその場が沸き立つ。

私は以前、認知症の人たちの前で歌ったことがあるが、するとそれまで無表情で黙っていた人たちが、たちまち生き生きとした表情になり、曲が終わったところでつぎつぎとしゃべり出したのである。一週間後に同じ人たちの前でまた歌ったところ、また同じ事が起こった。CDの音をいくら流してもそうはならない。生の音楽は特別の力をもっている。

本書は、「芸術には人々の心を打つ、何か普遍的な力が存在する」という一文から始まる。本書の目的は、その力が何なのかを、言語脳科学者である酒井邦嘉さんが、音楽、将棋、マジック、絵画の各分野を代表する四人の芸術家との対談から、言語をキーワードとして解き明かそうとする試みである。音楽は指揮者の曽我大介との、将棋は羽生善治との、マジックは前田知洋との、絵画は画家の千住博との対話である。

どの対談も臨場感に溢れていて、いっしょに話を聴いているような気分になる。それぞれの分野で専門的な内容にまで踏み込んでいるのだが、話の流れが自然でわかりやすく、予備知識がなくても理解でき、共感できる。そして、説明が欲しいと思うところには、必ず簡潔にして要を得た注がついている。

私はマジックについては何も知らなかったが、本書を読んで、マジックが素晴らしい舞台芸術であることを知った。前田さんは、マジックの構成要素の中でタネはその一部でしかなく、重要なのは立ち居振る舞いとタイミングであると言う。

将棋に時間芸術としての音楽と共通する点があることも知った。羽生さんは、音楽がメロディーやリズムのまとまりとして認識されるのと同じように、将棋も一つ一つの駒の配置ではなく、駒組みのまとまった形や差し手の連続性から捉えていると言う。

そしてここでも認知症の人たちが、マジックを楽しみ、将棋の対戦ができることを知って、人間の奥深いところにはたらく芸術の不思議な力をあらためて強く感じた。

音楽については個人的に馴染みがあるので、曽我さんの言われることはよく理解でき、細部まで共感できる。「小さな音をどこまで出せるかがプロとアマチュアの差である」は、いつも感じていることだ。

マジックにも音楽にも、身体スポーツとの共通点のあることが指摘されたのにも納得した。とくに、前田さんがマジックのために同側動作を訓練して身につけられたと知って驚いた。私は声楽のために同側動作をジムに通って練習中だからである。

最も雄弁なのは千住さんで、本書の刊行記念対談が駒場で開催された際にお目にかかり、その全身から発散される迫力に圧倒されてしまった。千住さんは言う。「人間は芸術や美というものがなくては生きていけないのです。芸術や美は、単なる趣味や嗜好ではありません。『壁が空いているから絵を飾りましょう』『耳が寂しいから音楽を流しましょう』といった理由ならば、芸術はとうに廃れているでしょう」。音楽好きとしては勇気づけられる。「芸術や美は、人々を仲良く幸せにし、人々に生きる勇気を与えるもの」。そうでないものは、何を纏おうと芸術とはいえないのだ。

千住さんが「芸術はとても単純なことをやっているのです。『私はこう思う。皆さん、どうですか』と問いかけているのです」と言うのを受けて、酒井さんは「その『芸術』を『学問』に置き換えても、同じ事がいえますね。『私は、これが分かったと思います。いかがでしょうか。』と問いかけるのが学問です」と言う。まったく同感である。

四つの対話の要点は驚くほど共通している。それを酒井さんは次のようにまとめている。「その共通点とは、第一に、『人間』としての体験が芸術を生み出すということである。芸術について語ることは、人間について語る事に他ならない。第二に、『言語化』の重要性である。もちろん、創作の過程を含めたすべてが言語化できるわけではないが、少なくとも言語化が芸術の創作活動を支えていることは疑いようがない。そして第三に、芸術は『対話』である」。芸術のもつ力に心を打たれたことのある人は、きっと納得されるであろう。

酒井さんはまさにその『対話』という形で、それぞれの芸術家の体験と思いを巧みに引き出し、それを著作もあるその方々自身があらためて言語化する機会と適切な場を作り出した。そしてそのおかげで、私たちも芸術家の思いを共有する場を得たことになる。

(相関基礎科学系/化学)
 

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