HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報571号(2015年1月14日)

教養学部報

第571号 外部公開

〈駒場をあとに〉気がつけば二十年

内田隆三

気がつけば足かけで二十年駒場に在籍したことになる。通う病院の数は増えていったが、何とか定年の歳になった。やや長い縁となったが、わたしの駒場での思い出はさらに二十数年前に遡る。

大学に入る四か月ほど前、東京府中で三億円事件が発生した。その翌月に本郷では安田講堂の攻防戦が行われ、入試中止やむなしとなった。安田城は落ちたが、偽装交通警官は緊急配備された延べ一万六千人の警察官の包囲網を独りですり抜けていった。僅か三分間の事件だが、東京の郊外が急速に拡大していった時代のことである。

一年後、親しい友人が駒場に入り寮に住んだので、遊びに行くことがあった。彼を見ていると、矢内原門をくぐれば言論の自由があり、寮に入れば安眠が保証される─これが大学の自治かなと思った。部屋の壁には孔子をもじり「寝台白布之ヲ父母ニ受ク敢テ起床セザルハ孝ノ始メ也」と誰かの古い落書きがあった。友人は貧しさと清潔を両立させようとしていた。部屋に現れようものなら食われてしまうから「鼠も出ない」と笑っていた。寮の食堂の味噌汁は薄くて具が少なかった。コミュニケーション・プラザの芝生にあるのはもっと古い時代の寮の遺跡だろうか。寮の向かいの生協には自販機があった。贅沢か孤食か塩分を求めてか、背の高い友人が小さなカップを持ち、ヌードルを食べる姿が印象的だった。

友人の薦めもあり、大学院は本郷に進学した。大学院に入ると、勉学はそこそこに、旅に出るのが楽しみとなった。あまりおかねはなかったが、本人は愉しかった。結局は、ほかにすることもないので勉強したが、それは博士課程に入ってからだ。博士課程のとき駒場の近代文学のゼミに出た。先生の研究室は寮の並びの棟にあった。時代物の研究室で留学時代の漱石の鬱屈した日記をのんびりと読んでいた。授業のときの先生の悩ましい顔と先生が言われたことを今も覚えているから不思議だ。駒場で勉強したのはこれが初めてだった。博士課程の終りのころ学術振興会の研究員に採用され、所属機関が駒場になった。形式的にはこのときが駒場に所属した初めになる。やがて就職となり学校を出たが、のちに教官として戻った。

学部長から辞令を頂いたのは木造校舎の二階の部屋だった。いまはアドミニ棟があるが、当時の偉い先生たちの様子を、この木造の建物の部屋とひと繋がりのイメージで覚えている。最初に学内委員になったのは八号館図書委員である。何も知らないのだが、所属と職位から、副委員長、委員長となった。八号館にあった教養学部後期課程の図書室は名代の室長が仕切っていて、上司にもがつんと渉り合うなど、威勢がいいなと思った。やがて新図書館ができて、八号館図書室も多くの機能がそちらに統合された。雨の降る日、野晒しの錆びた外階段を昇って図書室に行ったこともあるが、その八号館も白いきれいな建物に変わった。
昔の図書館は現在のアドミニ棟のあたりにあり、大地震が来れば危ないとの噂もあった。入ると中央に大きい階段があり、試験前などは、共同の机に向かって学生たちが一斉に勉強していた。今の図書館はパソコンが巣箱の列をつくるように並び、画面に向かう学生たちの姿勢も正しい。昔は机に向かってもっと前傾姿勢だった。前傾が深くなりすぎて眠る者もいた。いまは図書館で眠っている学生を殆ど見かけず風物詩が消えたような気もする。パソコンの前に向かいクリックにタイピングで、他の席とは没交渉に視線が画面に接着している感じだ。今より、もっと木の感じがして、日が薄く差す、ややガランとした図書館が懐かしい。そこには睡魔が棲んでいたが、今はこの妖怪もコンクリートの館内の隅っこに小さくなっているのだろうか。

「教養学部報」の編集委員長もしたが、編集室の場所は駒場の建物の変化を映し、あちこちと移動した。施設と号館の建て替えや新築が次々に行われ、駒場の光景は東京という都市に似て、この二十年で相当な変貌を遂げた。この勢いで行けば、九〇〇番の講堂、博物館、そして時計台は残るだろうが、さらに二十年後には、古い建物はどれ位残っているだろうか。大学はあまり変わらないホームのように思っていたが、もし生き延びて訪れたら、匣など開けずともそのまま浦島太郎だろう。

建物は変わっていくし、先に去られた方々も多い。悲しいことに亡くなられた方もいて、自分より若い人の場合もある。キャンパスを眺めていると、言葉にならぬ想いが心を通り抜けていくときがあり、こんな自分でもそのことを忘れずにいようと思う。
忙しさは程ほどに、委員会は数を減らせればと思うが、わたしの場合、異なる学科の人と話ができるよい機会でもあった。委員会の小人数で弁当を食べているときに、生物や建築、物理や数学など専門ではない分野の耳学問をしたこともある。後期課程改革のときには、説明のために別の学科の学科会議に出席したが、出て見ると意外な発見があり、いろんな学科に行ってみたいなと思ったこともある。

忙しかったのは後期課程改革のときで、既存の六学科を廃止し、新たに三学科の設置申請をした。廃止と設置の両面をもつ書類を文科省に提出するときはやや緊張もしたが、気持ちはすっとした。学部内、外部評価、他学部、本部、文科省など、場面場面が思い出である。仕事の中身は制度上の変更にあったが、人と知り合うことにより以上の意味があると思った。ある人に徴兵ですねと言われたが、二年余り働いて文科省から新学科の設置を認める旨の通知が来た。僅か数行だが、自分には含蓄深いもので、よかったなと、思った。そして、ありがとうと言いたい同僚のことがあれこれ思い出された。

が、いつの間にか、わたしも定年に達した。先輩がいつの間にか定年になったと云われたのを思い出す。果たして研究のペースと、定年延長と、物臭のせいだけだろうか。いま顧みると、同僚、職員の方々、学生たちの多くに恵まれたからだと思う。そのときの一コマ一コマに感謝の想いは尽きないが、もうお別れの言葉に代えるときである。

(国際社会科学専攻/社会・社会思想史)

 

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