HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報572号(2015年2月 4日)

教養学部報

第572号 外部公開

〈駒場をあとに〉 瓢箪から駒場

髙田康成

572-D-2-1.jpg平成元年に赴任ですから、四半世紀を超えて駒場にお邪魔をしてしまいました。振り返ってみれば、駒場に来たことからして瓢箪から駒なら、その後の巡りあわせもすべて同様でした。結果的には申し訳ないくらい駒場を楽しんでしまいました。すなわち皆さんに申し訳ないほどご迷惑をおかけしたということにもなります。

駒場へは東北大学文学部からの移籍でした。旧帝大英文学講座の助教授ポストは上司と同僚と学生に恵まれ、研究環境も秀逸でした。動く理由はなにもなかったのですが、(話せば長くなってしまう)ひょんな経緯から駒場に迎えてもらうことになりました。しかし赴任後二年も経たぬうちに、大手の私学に移る決心をしました。駒場は学生も同僚も超一流というのは今も昔も変わりませんが、当時の研究教育環境はあまりにも劣悪で、改善の兆しさえ見えなかったからです。結局この個人本意の転任の目論見は、英語教室(所属部署)の重鎮の先生方と大手の私学の先生との談合により、集団主義的原則の下にお流れとなりました。

しかし時を同じくして新たな駒が出ます。一九九一年の秋、国際学会「フーコー・シンポジウム」が渡邊守章・蓮實重彥両先生の統括の下に駒場で開催されることになり、英語圏に係る準備と当日の司会を仰せつかったのです。本来ならば私と名前が酷似する先輩の大先生がするはずでしたが、ひょんな理由からお鉢が回ってきました。これを機に渡邊・蓮實両巨頭をはじめ小林康夫、岩佐鉄男、松浦寿輝といった仏語系表象文化論の俊英に出会えたことは、その後の私の駒場人生を決定づけました。

九二年には比較文学比較文化専攻の先生方のご厚意により、その授業担当を命じられました。また退官された高橋康也先生のあとを襲って本郷の英文大学院担当ともなり、多忙ながら多くの優秀な学生に恵まれた愉快な時期でした。

その後まもなく部局化・大学院化が果たされると、表象文化論コースに配置換えとなり、文学・思想・芸術を横断する自由な領域に解き放たれたのでした。とはいえ同僚は英才ぞろいで学生も優秀、こちらは西洋古典学を齧ったのをよいことに、表象古典文化論と銘打って、かろうじてスキマ産業的に生き延びました。世紀が変わってCOE(卓越的研究拠点)の時代が到来すると、小林康夫が主宰する「国際哲学センター」に加えてもらい、COE二期およそ十年にわたって知的他流試合を楽しみました。なかでも米欧の日本研究者との密なる交流を通して、「日本哲学」研究の洗礼を受けるに至ったことは望外の幸運でした。

いま一つの瓢箪から駒と言えば、イタリアとの恋物語です。七〇年代の後半に英国に留学した折も、最後の二か月はペルージャに脱出、駒場で最初のサバティカルもフィレンツェへと、心は常にイタリア命。こういう片思いは普通それだけでも幸せなものですが、数年前のこと、「イタリア地中海研究」という分科を立ち上げるに際して、兼担の助っ人としてイタリア語中級(イタリア思想講読)を教えるという、なにか片思いを超えた恋心の法悦を味わったのでした。

さてもちろん大学は研究教育だけではありません。別の瓢箪から別の駒というのもありました。

九三年に蓮實学部長がドラマチックに誕生すると、どういうわけか学部長補佐に起用され、部局化(大学院拡充改組のための概算)の大嵐に放り込まれました。部局化とワンセットだった「英語I」改革の概算支援、いまだ片付かない駒場寮問題等々、夜中に帰宅する日々が延々と続きました。しかし今思い起こしても徒労と感じられないのは、たとえば改革首謀者の渡邊守章先生は同時に劇団を主宰して演劇活動を展開し、学部長にいたってはびっしり詰まったスケジュールをものともせずに、映画評論から文芸時評におよんで一向に筆を休める気配がない、こういう濃密な知的空間に生息していたお陰だったに違いありません。

任期一年の学部長補佐の二年目には、追い打ちをかけるかのように、「英語による短期留学プログラム」開設という至上命令が─カルコン(日米文化教育会議)すなわち本間長世先生経由で─文科省から降ってきました。そもそも米国人留学生を増やすことが主目的のプログラムなので、アメリカ研究関係者が対応するはずだと思いきや、どこ吹く風かとばかりに一向に動きません。ついに学部長命令を下さざるをえない時期が到来、気が付けばしかし白羽の矢は補佐の私の頭上に立てられておりました。翌九五年の秋にAIKOMプログラムと命名されて開始されたこのプログラムの俄作りと見切り発車のために、私は九四年の秋から九六年の春まで、世に言う猛烈社員を地で行かざるをえませんでした。(開設秘話は『駒場五〇年史』に書きましたのでご覧下さい。)この国際化の小さな試みから得た教訓を述べずに駒場を去るわけにはいきません、駒場はもとより東大がグローバル化するには、研究教育組織の構造と体質を根本的に変える必要があります。優秀な学生を集めるには、奨学金を用意する前に、まずは国際競争力のあるカリキュラムを創り出すことが先決です。小手先の掛け声程度の改革など意味がありません。

九七年、蓮實総長の時代の到来とともに、ふたたび補佐としてお仕えする機会をえました。アジア外交の開拓を重視された総長のもと、後にベセトハ四大学フォーラムとなる交流計画を刈間文俊、古田元夫とともに立ち上げたのは懐かしい思い出です。

新世紀には英語部会主任として英語教育の構造改革に執着しました。大学院化により前期課程教育の責任母体がきわめて曖昧になったからです。同僚の内野儀、矢口祐人と一緒にALESSプログラムを立ち上げ、三年前には言語教育体制の刷新のためにグローバルコミュニケーション研究センターの設立に漕ぎつけました。研究面と同様、すべきと思うことはまだ山ほどありますが、もはやこれまで。ご機嫌よう、さようなら。

(超域文化科学専攻/英語)

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