HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報576号(2015年7月 1日)

教養学部報

第576号 外部公開

「国字愛」はどこへ行く? ─国立ハングル博物館(韓国)を訪ねて─

三ツ井崇

五年前、本学の広報誌『CHOICE』(二〇一〇年一一月発行)に、「愛のメタモルフォーゼ」という企画テーマで「紆余曲折の「国語(字)愛」」と題して書いた短文がある。近現代朝鮮の言語・文字ナショナリズムの展開を「国語/国字愛」の実体化の過程ととらえて、その位相について概述したものである。要点は、植民地期に「国語/国字」の地位から転落した朝鮮語/ハングルに対する「民族愛」の実体化が、日本の統治権力との緊張関係のなか、言語・文字改革および伝統の顕彰という形でおこなわれたが、植民地からの解放を迎え、「国語/国字」の地位を取り戻してからも、今度は朝鮮半島の南北分断状況において再び「民族愛」の課題が前景化したというものである。わたしはこの文章を「しかし、ナショナリズムのもつ包摂と排除の論理が非難の対象となって久しい。国外からの人の流入の日常化と、南北関係の緊張を背景に、韓国ではナショナリズムの基盤が揺れている。今後、「国語愛/国字愛」はどうなっていくのだろうか。注目していきたい」と締めくくった(同誌48頁)。今回のこの記事は、まさに右の問いの中間報告のようなものである。その格好の材料が、韓国の国立ハングル博物館の存在である。以下、昨年末に同博物館を訪ねた際の印象を述べてみたい。

国立ハングル博物館は二〇一四年一〇月九日に開館した新しい施設である。ウェブサイトの「沿革」によれば、二〇〇八年三月に「大統領業務報告及び指示事項としてハングル文化の活性化法案の準備と推進」、二〇〇九年一二月に「大統領業務報告、国家象徴物としての国立ハングル博物館建立」とある(http://www.hangeul.go.kr/)。ちなみに一〇月九日は「ハングルの日」で、一九二六年より創設された、十五世紀のハングル創製日を基準日とする民族的/国家的記念日である(ちなみに北朝鮮では別の日に指定されている)。一九二六年というのが日本の植民地期であることからもわかるとおり、同時期における朝鮮語/ハングル抑圧政策に対するハングル文化守護と拡大を意図した記念日でもあった。解放後になると、直近の抑圧の歴史を記憶する役割を付与する形で、国家の記念日として祝賀されることになった。その意味でハングルの顕彰行為は歴史性を有する。しかし一方で、近年、韓国は国際結婚などで主に東南アジア方面など、文化的ルーツを異にする人々が移住してきて(韓国ではこれを「多文化」化という)、「国民」統合へ向けた対応が迫られており、ハングル教育の必要性もそのような新たな文脈において叫ばれている。いま、このような状況で博物館が設置されるということは、前者の記憶の場としての機能と後者の教化の場としての機能を同時に果たすことを意図したものであろうことは訪問前から容易に想像された。

ところが、わたしは実際に訪問してみてショックを受けた。というのは、前者の記憶の場としての機能に大きな変化が生じていたからである。従来、ハングル(文化)の歴史はハングルが創製された時代の朝鮮時代のそれとハングルが漢文にとって代わって「国字」となり、植民地期に至ってその地位から転落する近代のそれと二つが記憶の対象となる。とりわけ後者は植民地期の朝鮮知識人たちによる民族的抵抗の成果が強調されるのが常であった。ところが、その「肝心の」近代については記憶の場としての機能が果たせていないくらい貧弱なものであったのだ。その意味であまりにも拍子抜けしてしまった。紙幅の関係上詳述は避けるが、近代における国家形成期とそれが日本の植民地となって挫折した後の時期とは、ハングルナショナリズムの意味合いが変わってくるのであるが、そんなことはお構いなしにいっしょくたに展示物が並べられていて、しかもそれぞれに対する詳細な説明はほとんどなしという状態である。もちろん開館間もない状況で展示が追い付かなかっただけかもしれないが、わたしとしては歴史認識をめぐるある重要な問題を想起せざるをえなかった。実は、とりわけ一九九〇年代以降、韓国で民族主義的な歴史叙述が批判されるようになり、植民地期の朝鮮語規範化運動(ハングル運動)が、日本の支配に対する抵抗であるとする単純な解釈に異議を唱える人文学の研究者が出てきたのである。もっとも、こちらも日本による近代化の成果を強調するグループもあれば、むしろ逆に日本の植民地統治権力の巧妙な浸透過程に注目するグループもあるので、一概に「保守」と「進歩」のような対立軸では考えられないのだが、いずれにせよ、ハングルの近代史は歴史認識問題の争点になってしまったのである(実は、わたしもこの過程に少し絡んでしまっている)。博物館の近代部分の展示は多分にそのような歴史認識問題の影響を受けたのかもしれない。

一方、博物館内でひときわ目立ったのは、先に述べた「多文化」状況に対応するハングル教化の機能であった。最新のエレクトロニクスを駆使した子ども向けの体験型ブースが印象的であった(わたしにはまるで仕組みがわからなかったのだが…)。韓国の「国字愛」は、近代史の記憶強化よりも現代社会における価値の教化(強化)の道をたどるということになるのかどうか、近現代史研究者としては気になるところである。

(言語情報科学専攻/韓国朝鮮語)

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