HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報577号(2015年10月 7日)

教養学部報

第577号 外部公開

中立の条件

斉藤 渉

一年生のみなさん、第二外国語は何語をとっていますか? ○○語でよかった! という人もいれば、どうして××語なんか取っちまったんだと後悔(?)している人もいそうです。どの言語にもそれぞれの難しさがあると思います。

文法上の性
ヨーロッパの言語を選んだ人なら、名詞の性の区別に悩まされているかもしれません。フランス語、イタリア語、スペイン語なら男性と女性、ロシア語やドイツ語だとさらに中性も加わります。性の区別がなくなった英語はむしろ少数派で(ずっと昔は区別がありました)、英語の親戚にあたる諸言語の多くには、二つまたは三つの性があります。でも、人や生物に性別があるのはいいとして、カバンとか机とかケータイとかが性別をもつってどういうこと? フランス語では太陽が男性名詞で、月が女性名詞ですが、ドイツ語だと逆になります。つまり、文法上の性は、語の意味と関係なく言語ごとの慣習によって決まっているのです。
そもそもどうしてこんなややこしい区別ができたのでしょうか? 残念ながら、よく分かりません。これから先もおそらく答は見つからないでしょう。言葉が生まれた日にタイムトラベルでもしないかぎり、調べようもないのです。

擬人化?
もちろん、仮説はあります。たとえば、文法上の性が一種の擬人化から生じたという説です。言語を使い始めた人々は、生活のなかでとても重要な役割を果たしている区別、つまり性の区別を、人間(や生き物)以外の事物にまで拡大適用し、太陽は男、月は女(またはその逆)であるかのように見なしたのではないか? 荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、神話にはこのような擬人化が溢れていますし、トーテミズム(ある部族が特定の動物を祖先と見なす信仰)を考えれば、世界のすべてが男と女に分かれているという観念は、さほど不自然でないのかもしれません。
ただし、この説には難点があります。男性・女性はよいとして、なぜ中性という第三のカテゴリーが生まれたのでしょう? 現在では男性と女性の区別しかもたないイタリア語、スペイン語、フランス語なども、祖先にあたるラテン語には中性がありました。もともとは三つの性があったのに、中性が消失したわけです。人間の世界では、性の区別がたしかに大きな意味をもつように見えます。万物が擬人化された結果、あらゆるものが男/女のどちらかに分類されたという説には、それなりの説得力があるものの、もう一つ、「男と女のどちらでもないもの」という区分を設ける動機があまりうまく説明できないように思われます。

ne-uter
「中性名詞」を意味する英語のneuterは、「中立・公平」にあたるneutralと同じ語源で、ラテン語の「どちらかの」を意味するuterに否定の接頭辞ne-がついた形です。まさしく「どちらでも・ない」を意味していました。中立とかニュートラルというと、場合によっては「どっちつかず」とか「どちらでもいい」と解釈されてしまうことがあります。しかし、中立ということと、曖昧さ、あやふやさとは区別しなければならないでしょう。第一に、「どちらでも・ない」には明確な否定が含まれています。しかし、第二に、「AでもBでもない」と言えるためには、その前提として、AとBとの差異あるいは対立が、はっきり意識され、把握されていなければなりません。この両方の条件が満たされないかぎり、「中立」は「どっちつかず」や「どちらでもいい」になってしまうのです。

中立の条件
世の中では、さまざまな場で「中立」の態度が求められます。公共放送は政治的に公平であることを法的に義務づけられていますし、大学の教員も、特定の宗教的・政治的立場に偏った活動を慎まなければなりません。公的な地位を私的な利害のために利用してはならないというのは(実際に守られているかどうかは別として)近代社会の基本ルールです。
とはいえ、「政治的立場」とは何かという話はとても厄介なので、私たちはついつい「どっちつかず」の態度に逃避しようとします。触らぬ神に祟りなし、というわけです。しかし重要なのは、社会を動かす基本的対立がどういうものなのかを見極め、その上で対立軸の「どちらでも・ない」場に身をおこうと努めることでしょう。言うほど簡単ではありませんが、少なくとも「中立」であるにはそうするほかないのです。

「中立」の政治性
C・シュミットの『政治的なものの概念』(1932)は、敵/味方という対立が「政治」を構成する条件だと論じていますが、この本にはまた、「中立」をめぐる興味深い考察も見られます。シュミットによると、自分の態度が「政治的でない」という主張や、相手の立場が「中立的でない」という非難は、それ自体が政治の手段となりうるものです。自分を中立的だと位置づけることで、現実にある敵/味方の対立を見えにくくし、支配的秩序を不問に付すという点では、私たちの「どっちつかず」の態度も、気づかぬうちに政治的な役割を果たしてしまうに違いありません。

(超域文化科学専攻/ドイツ語)

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