HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報579号(2015年12月 2日)

教養学部報

第579号 外部公開

熱心に学ぶ学生を生み出すものは何か ~日英大学生雑感~(II)

荒巻健二

前号(第578号)では、この夏までサバティカルで一年間滞在する間に授業を行う機会を得た英国の大学で授業内容の習得に熱心な学生が目立ったことから、英国の大学で学んだ若者へのアンケートや欧州に長年住んでいる友人の話をもとに、熱心な受講態度を生むメカニズムについて、自律説(そもそも授業内容に関心を持つ学生が受講している)、他律説(授業内容の習得を強いる仕組みがある)、実益説(授業内容を習得するとメリット(例えば就職に役立つ)がある)の三つの視点から、アプローチを試みた。その結果、そもそも授業内容に関心のある学生が入学する仕組みがあること(自律メカニズムが働いている)、同時に大学の成績が一生ついて回り、悪い成績は就職に不利であること(大学での良い成績には実益がある)が浮かび上がってきた。更に、大学の規律も強いこと(他律メカニズムもある)が示唆された。今回は、この最後の他律メカニズム、即ち大学における学習への規律付けという点について触れ、その上で英国の状況から日本に何が示唆されるか考えてみたい。

勉強への規律を確保する仕組みが導入されている

この学習への規律付けについては、サバティカル中に所属していたSOAS経済学部の学年末の試験の出題と採点の仕組みについて同僚に尋ね調べてみた。

〈学年末試験問題作成は内部・外部で何重にもチェック〉
まず学年末試験の出題については、各コースの教員が問題を作成し事務に提出するところまでは日本と似ているが、その後のプロセスはまったく異なっている。提出された問題は、学部内の教員で構成する審査会議(scrutiny meet­ing)の審査を受ける。ここでは出題意図の明確性、コースのレベルに適当な内容であるか、他の試験や過去問・学期中のエッセー・テーマとの重複がないか等が委員全員によりチェックされ、必要に応じて問題の修正が提案される。更に試験問題はロンドン大学の外部(SOASはロンドン大学の一部である)の 外部試験委員(visiting examiner)のチェックを受け、英国の他の大学の同様なレベルのコースとの比較などが行われ、必要に応じ変更の提案が行われる。このようなプロセスを経て全ての試験問題が適切であると確認されると、外部試験委員と採点を行う委員会の議長がサインをして試験問題が完成される。

〈採点は複数教員が実施、学外委員もチェック〉
採点については、学部内の教員二人(そのコースの担当者や内容に詳しい者が学部長により指名される)が第一及び第二内部試験委員としてそれぞれ採点を行い、その後両者で話し合いagreed markを決定する。両者の採点に大幅な違い(例えば5%以上の差)があるときなどは、外部試験委員に送付され裁定を受ける。外部試験委員の主たる役割は内部教員の採点が英国内の他の大学の採点基準と比べて適当で一貫しているか確認することで、採点の変更を提案することができる。かつてSOASの日本経済コースで客員教授として教えた日本人が外部試験委員から採点した回答間の点数の違いについて説明を求められ、まるで自分が面接試験を受けているような気持になったと述懐していたことを思い出した。まるで入試のような厳格な学年末試験を毎年通過しなくてはならない学生はかなり強い規律付けの下に置かれていると言えるが、これは英国の大学に標準的なシステムのようである(ただ、大学の独自性(例えば厳しい評価基準の採用)を減じてしまうなど問題もあるとの見方がある)。
これまで(前号を含め)触れてきたことをまとめれば、英国の学生が熱心に勉強するとすれば、それはまず第一にコース内容に関心の高い学生が入学する仕組みがあること、第二に学期を通じ入試に匹敵するような厳格な評価の仕組みがあり、規律付けが行われていること、第三に社会が低いグレードの成績を受け入れないという認識があることが挙げられる。また日本と異なる大きな背景として自らコスト(授業料)を支払っている場合が多く、従ってそれから得るもの(知的関心の満足や良い成績での卒業という成果)を求めている度合いが強いことも指摘できよう。コースでの勉強内容が就職に直結することは予想されていない(内容面で直接的な実益があるとは言えない)。

日本の大学教育への示唆

〈大学教育の位置づけは日本と異なる可能性〉
これまで書いてきた英国の大学の事情(大講義よりも少人数教育に力点を置くいわば伝統的な大学の例に偏したかもしれないが)から日本の大学教育(特に文系分野)について何を引き出せるのだろうか。まずそもそも社会における大学教育の位置づけが異なるのかもしれないという印象を持つ。即ち、日本の社会は入試で測られる基礎能力に多大な信頼を置いている(逆に言えば大学で行われる訓練にはそれに比べれば関心が薄い)ように見えるのに対し、英国は大学で行われる能力訓練を評価しているように感じる。前号で触れた英国の大学生活に関する英国人へのアンケートへの回答の中にも、在学中は良い成績を取るため睡眠時間を削って必死で勉強したが、留学生は大学生活を楽しもうとしていた、これには成績ではなく学位があれば就職に有利と言う文化の違いがあるのだろうという答えがあった。
仮に社会が知的訓練は入試までで良いと考えているのであれば、極端に言えば大学教育はいらないことになってしまう。勉強以外の経験のための四年間のgap yearという(皮肉な)見方もあるかもしれないが、入試で測られるものを超える知的な力が社会に不要とは思えない(我が国が高賃金国であり続けられるかどうかはそこにかかっているように思う)。そしてそれが実学(例えば司法試験、会計士試験に有用な学習あるいは医学や生産現場に近い理系の学習等)ではなく、就職とは直接的関係の薄い専門(例えば、文学や政治等)を土俵に行われていること、そこでの学習成果(成績)が研究の場でなく実社会でも「それなりに尊敬される」ようであるところに我が国との相違を覚える。専門の内容に関わらず大学での成績が重視されているとすれば、専門は場に過ぎず、そこで鍛えられる別の能力が評価されているということだと思われる。それは汎用性のある力と言うことになるが、果たして何であろうか。これは推測になるが、既存の知識の吸収と再生産を超えるところで訓練が行われるところに大学教育の特質があるとすれば、それは答えの定まらない問いに対し、自分で解を見出していく力、考える力といったものなのではないであろうか。
我が国経済がキャッチアップ過程にあり、先進技術の吸収や改善といった課題が明確で、しかも企業も大企業は終身雇用を基本とし組織固有の技能習得を重視していた時代にあっては、既存知識の吸収と応用の重要性が高く、そうした基礎力を大学入学段階で測ることが合理的であったのかもしれない。しかし我が国がフロントランナーの一員となり、直面する課題の解決手法を自ら模索する必要があることはもちろん、何が課題であるか自体が自明ではなくなり(我が国は「課題先進国となった」との声も聞く)、同時に経済低迷の長期化と雇用の流動性の緩やかな高まりの中で企業が内部訓練型の人的資源育成のウエイトを下げ、習得した技能に基づく中途採用や派遣労働の活用等を拡大するにつれ、日本社会が学校教育に求めるもの(逆に言えば若者の職業人生にとって大事なもの)も変化してきている可能性がある。従来から重視されてきた知識の吸収力・理解力、再生産力といったものは、今後も基礎能力の重要な要素として決してその意義を減じるものではないと思うが、それと同時に課題の発見と解決、発信・コミュニケートといった能動的な力(自分の頭で考え、解を見出し、それを説得的に伝える力)を訓練する必要性が高まってきているように思われる。

〈若者の自立のタイミングも日本と異なる可能性〉
話が大きくなってしまった。このように大学教育の社会での位置づけには相違があるように思われるが、英国の例から授業内容の習得に熱心で、厳しく学ぶ学生を生む制度政策面の示唆はあるだろうか。ここでもそもそもコース内容に関心のある学生が入学する仕組みを設けるという大きな話が考えられるが、これは我が国の教育全体あるいは社会のあり方に関わり単純な話ではない。英国では大学の学部から仮入学のオファーがあると、条件として特定の科目ごとにA-level(一六歳までの義務教育終了後の二年間の高校教育中に受ける全国統一試験)で何点取るようにという指定があるそうで、学生は大学進学を考える場合早い段階から将来の進路を考え、高校でどの科目のA-levelを取ることを目指すか考えることになる(高校での勉強が大学の選択と受験を兼ねており、日本のような別途の大学受験勉強という形はとらない)。先に英国の大学には授業料など学生生活の維持に必要な資金をもっぱら自分で調達する学生が多いことを紹介したが、これも合わせて考えると、英国の社会は若者の自立のタイミングを我が国よりも早い時点に置いているのではないかと感じる。彼地では大学は自立を始めた若者が行く場所なのかもしれない。

〈より現実的な改革策〉
また話が大きくなってしまった。この点もとりあえずおいて、既存の社会構造を前提に何ができるか考えてみよう。まず、第一に学生の自発性を高める、即ち前述の自律メカニズムを強化するためには、大学での教育が社会や学生のニーズ・関心に応えるものとなっていることが重要であろう。前記のアンケートには、英国の大学ではコースが細分化され自分の関心にあったコースを選べるという回答があった(実際SOASの社会、人文、語学系学部のdegreeのとり方は350もあるという)。我が国の大学のコース編成や授業内容も世の中のニーズの変化に応じて常に見直し変化させていくことが重要だと思われる。
第二に、他律メカニズムについては、コース内容の習得をきちんとチェックする学習の進行管理の仕組みが必要と考えられる。SOASでも講義と演習の週三コマ(一コマ60分)の組合せによるインテンシブな教育、学期ごとのリサーチレポートの提出、期末筆記試験等を通じ、コース修了者の厳格な品質保証が図られていた。出席が五割を切ると期末試験の受験資格がなくなりうるというルールもあった(講義も出席をとっていた)。これらの点は大きく言えば入口の定員管理から出口の水準管理への大学教育の力点のシフトを示唆すると言える。
更に第三に社会がそうした実態を評価すれば大学の成績がより大きな意味を持つこともありうるであろう。コース内容が就職と直結することは少ないかもしれないが、教員や他の学生との相互作用の中で行われる学習作業を通じて、問題の把握と原因の分析、解決策の模索と発信など、自分の頭を使った知的な面での厳しい訓練が行われることは就職など社会に出るに当たっても評価されることであり、その意味で彼らの人生にrelevantなものとなると考えられる。つまり、受講生に研究者志向がなくとも(そのケースの方が多いであろう)、また専門が社会と直結する分野でなくとも(これもまた多いであろう)、大学での教育はそれぞれの専門分野を訓練の場として受講生の知的な力(自分の頭で考える力)の引上げに寄与しうるものであり、それが(研究及び研究者養成とともに)大学が社会に対して果たすべき役割であると思われる。
今回の駒場の改革で受講生の関心を生かす初年次ゼミの仕組み、より高度でインテンシブな展開科目としてのゼミ(例えば、社会科学ゼミ)の導入など自律と他律を強化する仕組みが入った。課題中心・自己発信型授業の充実等を通じ、厳しく学びかつ鍛える場として日本の大学を更に強化していくことは、教える側にとっても厳しい話であるが、若者の将来、本来成長産業となりうる大学の興隆、更には日本の再生のためには重要な作業であると考えている。

(国際社会科学専攻/経済・統計)

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