HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報579号(2015年12月 2日)

教養学部報

第579号 外部公開

駒場博物館へ急げ!──「狩野亨吉」展が終わってしまう

岡本拓司

この記事の載る『教養学部報』は2015年12月2日に刊行される。駒場博物館で開催されている「狩野亨吉」展(正確には「教育者・蒐書家・鑑定人 狩野亨吉 生誕百五十周年記念展」)は、12月6日までが会期である。本展をまだご覧でない方は、記事を目にされたら、どうぞまず駒場博物館までお運びください。

狩野の生涯と展示について
とは言っても、狩野亨吉とはどんな人物なのか、名前を聞いたのも初めてだという方も多いことであろう。狩野亨吉(1865─1942)は、1898年から1906年まで第一高等学校(一髙。東京大学教養学部の前身の一つ)の校長を務めた教育家であり、書籍の収集家、書画等の鑑定人としても知られている。一髙校長ののちは、京都帝国大学文科大学学長を務め、文筆家としては知られていても学者としての力量は未知数であった幸田露伴(1867─1947)・内藤湖南(1866─1934)を抜擢した。1908年に京大を退任すると、狩野は以後公職に就くことはなく、鑑定などで生計を立てたが、書籍収集の過程で、和算家の本多利明(1743─1821)、蘭学者の志筑忠雄(1760─1806)、特異な思想家の安藤昌益(1703─1762)などの事績を発掘した。今回の展示は、本年が狩野の生誕150年周年に当たることを記念し、東京大学駒場博物館に保管されている狩野関連の書簡・ノート・日記・目録などを用いて、多方面に及ぶ狩野の活動を浮かび上がらせようというもので、本学名誉教授の安達裕之先生と駒場博物館の丹羽みさと博士が制作を担当されている。初めて公開される資料も多く、この時期に駒場にいてこの展示を見ることのできるみなさんはたいへん幸運である。

狩野と一髙
狩野が校長を務めた一髙の校地と校舎は、東京大学教養学部に引き継がれている。展示を見に行く際にも、狩野と一髙の関わりについて知っておけば、興味もさらに湧くのではないかと思われるので、短く紹介しておこう。
狩野は秋田藩の支藩、比内藩の学者の家に生まれ、父良和が内務省に出仕したため1874年に上京し、番町小学校、第一番中学(後の府立一中)、東京大学予備門で学んだ後、1884年に東京大学理学部に入学した。この東京大学予備門は一髙の前身なので、狩野自身、一髙を母校と考えていたであろう。大学(一八八六年に帝国大学となる)でははじめ数学を学び、ついで哲学を修めた。多方面にわたる活動の礎となる素養は文理両面にわたる勉学の賜物であるとも言え、こじつければ、文理融合の先駆者でもある。1892年に第四高等中学校教授、1898年に第五高等学校(1894年に高等中学校は高等学校となる)教授に就任して教育に携わるようになり、1898年11月24日に一髙校長に就任して、1906年に京都に去るまで、約8年間この職を務めた。
狩野の在職中、一髙の皆寄宿制(全寮制)が実現し、学校に籠って世間を睥睨する姿勢、すなわち籠城主義に代表される校風が確立した。1904年に落成した新寮は、日露戦争の英雄乃木希典(1849─1912)にちなんで、翌年、朶寮と命名されたが、狩野が一髙に寄贈したものである。ほか、藤村操(1886─1903)の自殺、校風問題をめぐる論争(1905年)なども狩野が校長であった時期に起こっているが、一髙生の中に生じた事件であり、狩野の関わりは見えにくい。ただし、制度上特筆すべきは、1898年から始まり1904年に本格化した清国留学生の受け入れであり、学校幹部と寮委員が協力して対応し、以後、特設予科・特設高等科として続く制度の端緒を築いた。
狩野は寡黙で謹厳ではあったが、日曜・祭日も校務に当たる態度により生徒たちの信望を集めていたようである。東洋的大人と評される狩野の後任が当時の欧米風紳士の代表格ともいうべき新渡戸稲造(1862─1933)であったため、あきたりない卒業生の末広厳太郎(1888─1951)が弾劾演説をうつ(1909年)といった事態も生じたが、新渡戸もまた、一髙の校風に狩野のものとは異なる色を添えることとなった。

付けたり:狩野が一髙に残した本
以上で記事の目的はおおよそ達せられたが、最後にもう少し。
展示が終わってしまっても、駒場には狩野の足跡に触れる方法が残されている。狩野は生涯に数多くの書物と関わりをもったが、そのうちの一部は一髙に寄贈され、東京大学教養学部図書館(現・東京大学駒場図書館)に引き継がれている。記録によって内容の辿れる寄贈は、1905年(96点)、1910年(1点)、1911年(85点)、1916年(1点)の4回であり、1910年寄贈分の、パリで開催された万国物理学会(1900年)の報告書など、資料的価値の高いものも多い。ほか、1905年寄贈分には、アリストテレス(前384─前322)、アリストパネス(前446─前385)、アイスキュロス(前525─前456)、ホメロス(前8世紀)など古代ギリシア・ローマの古典から、パスカル(1623─1662)、ルソー(1712─1778)に至る迄の西洋の哲学・思想・文学・歴史等の基本的な教養書と、若干の軍事書、および狩野の清国人留学生受け入れに関する努力を反映してか、清国学生向けの『日本遊學指南』(1901年)や清国の学制を記した『奏定學堂章程』(1903年)が含まれる。1911年寄贈分には、マキャベリ(1469─1527)などの古典もあるが、19世紀から20世紀にかけて刊行された、ヨーロッパの歴史・語学・法律等の基本書が多い。
狩野は自然科学についても深い知識を有していたが、寄贈図書の大半は人文・社会領域に関わるもので、戦前の高等学校が生徒に期待した西洋の基本的教養の修得のために利用されるよう、また同時にギリシア語、ラテン語、英独仏語の学習にも役立つよう配慮されていたことが窺える。

狩野寄贈本の中には、「志願兵」(おそらく一年志願兵を指す)、「Mukden」(奉天。日露戦争の激戦場)などと一髙生が書いた紙片の挟まれている軍事書や、「1947年3月12日読了」と書き込みのされたモリエール(1622─1673)の全集もある。いずれも所定の手続きをとれば閲覧することができる。みなさんもぜひ一度手に取ってご覧ください。

http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#kanokokichi

(相関基礎科学系/哲学)


 

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