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最終更新日:2021.02.03

教養学部報

第580号 外部公開

<本の棚> 石田勇治 著 『ヒトラーとナチ・ドイツ』

市野川容孝

民主主義とは何か

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(講談社現代新書、2015年6月刊)
現財務大臣の麻生太郎氏は、2013年7月末、ある会合で憲法改正に消極的な考えを示しつつ、ナチ時代のドイツに言及しながら「ある日気づいたら、ヴァイマル憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた」「誰も気づかないで変わった」「あの手口を学んだらどうか」と述べた。この発言を後に麻生氏は撤回したけれども、日本国憲法(特に第九条)を変えず、その解釈の変更のみによって集団的自衛権を条件付で認めた2014年7月1日の閣議決定にもとづいて、昨年9月に安保関連法が成立した現状に照らすと、事態は麻生氏が望む方向で進んでいるようにも思える。ただし、この間、状況は「誰も気づかないで変わった」わけでは全くなく、安保関連法案に対しては大規模な反対運動が日本でおこった。
麻生氏は右の会合で「ヒトラーは民主主義によって議会で多数を握って出てきた」とも述べたが、本書で石田先生が強調することの第一は、ナチ・ドイツは議会制民主主義を葬ることで生まれたという点である。

ヒトラー政権は1933年1月に成立するが、その直前の32年11月の国会選挙でナチ党は、第一党とはいえ、得票率は33.1%にとどまり(同年七月の国会選挙では37.3%)、単独過半数には到底届かなかった。ヒトラーが首相になれたのは、選挙に勝ったからではない。ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したからである。ヒンデンブルクはヴァイマル憲法の定める大統領大権をヒトラーのために使うことにしたのだ(本書117頁)。

ナチは新たに憲法を制定したわけではないので、麻生氏の言う「ナチス憲法」が何を指すのか不明だが、ナチは1933年3月制定の全権委任法(授権法)でヴァイマル憲法の機能を停止させた。この法律は議会の承認なしに政府の決定だけで立法を可能にしたが、その第二条はさらに、政府の定める法律は憲法に違反してよいと明記していた。三権分立の原則や立憲主義を葬り去るこの法律を、ナチはどうやって制定したのか。重要なのは、同年二月末の国会議事堂炎上事件である。ナチ政府はこれを共産主義者による犯行と断じた上で、ヒンデンブルクに非常事態宣言を出させ、共産党員や社会民主党員らを「保護拘禁」と称して次々と逮捕していった(147頁)。当時のドイツの国会議員は647名。全権委任法の成立にはその三分の二の出席とさらにその出席者の三分の二の賛成が必要だったが、ナチ政府はこの保護拘禁によって81名の共産党議員全員と一部の社会民主党議員から議員資格を実質的に剥奪し、母数の647名からも外した上で、全権委任法を通す戦略に出た(155頁)。これがナチの「民主主義」の実態である。

1960年代のインタビュー番組でハナ・アレントは、国会議事堂炎上事件と保護拘禁について「それらは今ではその後の(もっとひどい)出来事の前でかすんで見えてしまいますが、実にとんでもないことでした」「この時から私はもはや傍観者でいてはいけないと思いました」と述べている。ナチが議会制民主主義を葬り去ったその時に、アレントは政治に目覚め、哲学に訣別する。他方、カール・シュミットや彼女の師であるマルティン・ハイデガーは、全権委任法制定直後にナチに入党した(172頁)。

本書で石田先生が強調することの第二は、それでもドイツ人の多くはナチの政治に当初、満足していたという点である。1951年に西ドイツで実施されたある意識調査で「20世紀のドイツで最もうまくいっていたのはいつですか」との質問に対して、回答者の45%が帝政期を、40%がナチ時代をあげ、ヴァイマル期をあげたのは7%にすぎなかった(191頁)。景気対策をはじめヒトラーの一連の政策は多くのドイツ人にとって「強いドイツを取り戻す」政策として映った(234頁)。

だが、ドイツ人のこの復興はユダヤ人の迫害によってもたらされた。ナチ時代には特有の「受益の構造」があり、その中で、あからさま反ユダヤ主義ではない普通のドイツ人が利益を享受していた。たとえば、同僚のユダヤ人がいなくなって出世できたお父さん、ユダヤ人の持ち物を競売で安く手に入れたお母さん、近所のユダヤ人が残した立派に家に住めるようになって喜ぶ子どもたち(291頁)。他方、1938年7月のエヴィアン会議の結果に見られるように、迫害されたユダヤ人を移民や難民として進んで受け入れる国は皆無に等しかった(285頁)。

麻生氏が言うとおり、日本の私たちがナチから学ぶべきことはある。だが、私たちはたとえばアレントがそこから学んだように学ぶべきではないだろうか。

(国際社会科学専攻/社会)

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