HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報581号(2016年2月 3日)

教養学部報

第581号 外部公開

<駒場をあとに> 数理の小径を通って

石井志保子

581-4-1.jpg駒場に赴任してから今日まではあっという間だった。ちょうど新入生が学部を卒業し修士課程を一年で早期修了した勘定である。早期修了するような優秀な「在校生」であったかどうかはかなり疑問であるが、短い間にとてもたくさんの良い経験をさせていただいた。

同僚と、専門の数学やそれ以外の四方山話をするだけでも、面白く刺激的であったし、大学によるローカル・ルールの違いなど面白く観察できた。

しかし三年目に専攻長・学科長を拝命すると「違いが面白い」などといっていられなくなった。ご存知の様に学事暦やカリキュラム改革が進行中で、私は現行のルールを十分に知らないままにそのルールを変えるという作業のまっただ中に放り込まれた。

知らないということは大きなストレスを生む。たわいない例でいうと、理学部の会議で、数学専攻からの申請で、ある先生が理学部との兼担になることの承認が議題になり数学科としての説明を求められた。ところがその先生は既に学部の授業も担当されていることを私は知っていた。すでに兼担となっている人がなぜまたその申請をするのか分からず、この議題について事前には知らされていなかった私は、「兼担の手続きを忘れたまま授業をしていたのに気がつき、改めて兼担の申請をした」というのが最もありそうな可能性だと思った。しかし確信がなかったのでそれは口に出さずにその場はしのいだ(口に出さなくて良かった)。あとで事情を知っている人に聞いたところによると、当該の先生は「副兼担」であったので授業は担当していたが、役職の必要上、今回「(本)兼担」に申請したというのが真相だった。いわばルーティンであったので私には事前に説明がなかったのだった。

「兼担」のほかに「副兼担」があるということは外部から来た者にとっては高度に非自明なことだ。

もっと重要な場面でもこのような非自明な疑問はしばしば起こった。また重要なこととそうでないこととの区別がつかないということも悩みの種だった。もっとも困ったことは進行中の「改革」の本当の目的が私にはよく理解できないということだった。こんな具合であたふたとし続けた一年間であったが、大きな破綻に至らず何とか任期を終えることが出来たのはひとえに、暖かく忍耐強く支えてくださった先輩・同僚の皆さんのおかげである。この経験のおかげでそれなりに大学の全体像がつかめてきたし、色々な人を知ることが出来た。この経験がなければ、他大学から来た私は半ばお客さんのままで、「卒業」してしまうことになったかもしれない。

この新鮮すぎる経験のほか、もう一つ新鮮な経験であったのは、文系の数学を担当したことだった。これまでの任地で受け持った授業は全て理学部か工学部の学生向けのものだったのだ。本学では文系とは言っても受験数学の洗礼を受けてきている学生がほとんどなので、ある程度の知識は想定できるし、数学に対してどのようなイメージを持っているのかもおよその想像はつく。また必修科目でない数学の授業を受講しにきているのだから、かなりの「数学好き」がいることも期待できる。自由に題材を選んで講義できる数理科学Ⅱは講義をする立場にとっても本当に楽しい授業だった。

将来数学を自分で使うという立場にはならないであろうが、多くは社会のリーダーになるであろうという学生に、全ての科学の基礎である数学を正しく認識してもらうというのがこの講義の目的であると思う。題材選びは、これまで数学の専門家以外に講演をした経験(多くは失敗の経験)を踏まえ、素数のおもしろエピソードから始めて、正標数の体(たとえば3+4=0になるような数の体系)での計算などを経験してもらい、これを用いてRSA暗号が機能することを、きちんと数学的に証明した。その他に多様体の特異点、無限の個数の比較まで盛り込みかなり欲張ったメニューだったが、ほとんどの学生は十分に消化し楽しんでくれたようだった。授業アンケートでは「大好きな授業のひとつだった」と書いてくれる学生もあり嬉しかった。

今後も数学の研究集会での講演の他に一般向けの講演をする機会はあると思われるが、受験数学を経験していない聴衆にも「大好きな講演」と言ってもらえるような講義をしたいものだと思っている。

研究面では、駒場への異動前に多様体の特異点の悪さを計る新しい指標を導入したのだが、駒場在任中に、その指標が極めてよい性質を持っていることがわかるなど、理論を発展させることができた。最近ではまた、この指標が正標数の体上の多様体の特異点についても機能するということを示す論文を書くことができ今後の方向性が明確になった。

また、二〇一四年にソウルで開催された、四年に一度の国際数学者会議(ICM)において、“Japan Forum”をオーガナイズし日本数学会としての初めてのforumの開催に貢献ができたこと、ICMに付随して開催された国際女性数学者会議(ICWM)では世界各国からの代表者とともにパネリストとしてパネルディスカッションに参加できたことも印象深い経験だった。

短い間でしたが、本当に楽しく充実した五年間でした。どうもありがとうございました。

(数理/数理)

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