HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報581号(2016年2月 3日)

教養学部報

第581号 外部公開

<本の棚> 東大もなんだかおかしい

中村政隆

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野矢茂樹 著
「哲学な日々─
考えさせない時代に抗して」
(講談社、2015年10月刊)
「私の勤務先は東京大学であるが、東大もなんだかおかしい。東大だけでなく、また大学だけでなく、教育そのものが変だ」とまえがきで語る著者は駒場で教鞭をとり研究室で思索にふけりときに坐禅をくむ哲学者である。野矢氏は分析哲学特にヴィトゲンシュタインに興味を持ち、専門的著作以外一般人向けの著書も多数ある。本書もまたそうした一般人向けのエッセイ集である。論理学から日本語論、接続詞の使い方から禅にまで話は及ぶ。哲学を語る以上に哲学者の日常を語り、そしてまたそれ以上に教育を、なかんずく駒場での授業風景あるいは駒場のカリキュラムさらには進学振分けにまでその内容は多岐にわたる。

氏は東京大学の現状をしきりに憂える。「なんでもかんでもきちんとやろうとすると、おおらかさは失われていく─いまの東京大学のことだ」と特に駒場における進振り制度について述べたあと、また「がんばればがんばるほど、規則や制度で固められ、失われていくものがある。かつての大学がもっていた、おおらかさ、伸びやかさだ。無邪気で自由な好奇心。道草を食うのがあたりまえで、『効率性』などは犬に食わせていた。そんな大学の気風が、薄れ、消えていく」「なんでも会議で決めねばならない。だが気風という形にならないものを会議で論じることはできない。実際、いまの大学は会議、会議、会議であふれている。ここから抜け出さねばならない」言い、「せめてもう少しアバウトになろう」と著者は呼びかける。

現在の大学に対してだけではなく学生への目もまた厳しい。「東大生は大学に入るまでは自分は人より優れているという根拠のある自信を持っていて大学に入ってから、あるいは社会に出て、打ち砕かれてしまう人も少なくない」と述べつつもこの根拠のある自信が揺るがない人もいるだろうがそういう人にはあまり好感がもてないと著者は言う。実際のところそのような人間を社会に送り出せば社会の障害どころか害毒にさえなるだろう。

評者がよく経験し、きわめて不思議に思うのは、私は文系だからと言い訳気味に言う人がよくいることである。それに対して私理系だからと話を切り出す人にはついぞお目にかかったことがない。文系の人には自身が『文系』であるという確たる主体的認識があるためだろうか。そして理系の人にはそれがないのだろうか。「もともとは理系だった(理科一類に入学している)。いや、もっともともとは文系だった(高校生の頃)」と述べ、さらには「現代文も数学も、おおざっぱに言えば、自分の頭の中で何かをでっち上げる、いわば妄想系の科目である。そう。私は文系でも理系でもない。妄想系なのだ」と語る著者は妄想系なのだそうだ。その「妄想系」なる人を現在の東大が、またこの駒場が温かく受け入れているだろうか。評者も自分のことを理系と称したことはない。著者同様にホモ・サピエンス・サピエンスであると思っている。本書は、会議とその事前のネゴシエーションに精魂傾けている教職員からは単に素通りされるだけではないかと危惧する。

この本は東大の学生、なかんずく駒場の学生にこそ読んで頂きたい本である。本書は学生時代から長く駒場に滞留した著者の、学生諸氏への啓蒙の書でありかつまた現在の学生諸氏への危機感を示した一書である。
著者の恩師のひとり末木先生の授業風景がこう活写されている。末木先生曰わく。「無限なるものを前に人間がとる態度のもうひとつは、無限なるものに対して、目を閉ざしてしまうことで、あります。つまり寝てしまうことであります。」そして末木先生は表情ひとつ変えずに、いきなりこう言ったのである。「寝るより楽はなかりけり、浮き世の馬鹿が起きて働く」この授業風景は私の眼にさえ懐かしく映る。浮き世の馬鹿は起きて働くことにするか。

(広域システム科学系/情報図形)

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