HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報581号(2016年2月 3日)

教養学部報

第581号 外部公開

送る言葉 ─黒住真先生を送る─

林 少陽

駒場の「藤野先生」

いまから十数年前に黒住真先生のお教え子にあたる方が、中国で江戸思想史関係の学位論文を出版した際に、あとがきにおいて、自分の師匠たる黒住真先生のことを「藤野先生」と呼んだ。「藤野先生」と言えば、中国では誰でも知っている、魯迅の仙台医学専門学校時代の恩師、藤野厳九郎のことである。恩師への深い思いを込めた魯迅のエッセイ「藤野先生」は中国では教科書に収められ、師恩への思いで読者を感動させるものである。1925年に書かれた魯迅のこのエッセイは、日本と中国の民間の付き合い、師と弟子との間の佳談として特に中国では広く知られている。このエッセイはその後国家による暴力の行使、即ち戦争という苦難の歴史を通過しながら、日本と中国の普通の人々の間の真摯な付き合いという希望を人々に与えつづけてきて今日に至る。黒住先生のお弟子さんの「私の藤野先生」という言葉に、自分の恩師への深い思いがいかに込られているのかがとても伝わってきた。その通りだと私も思っていた。

1994年に駒場に着任されて以来、黒住先生は、日本思想史研究を専門とする学生を育ててこられた。黒住先生の分野は江戸思想史であるが、江戸時代の学問が高度に儒学化された時代もあり、この20年来この時代を研究対象とする中国語圏をはじめとする東アジアの研究者が急速に増えてきた。そのような若手研究者のなかに黒住真先生の学恩を受けた学生が少なくない。そのなかでは黒住先生を自分の「藤野先生」と思っている者が少なくないのであろうと思われる。私事で恐縮であるが、大学院生の頃から江戸の思想に深い関心を寄せていた私も、部外者ではあったが、よく黒住先生のゼミに出入りし、たいへんお世話になった。

黒住先生はそのお名前の通り、「真」で以って学生たちに接してきた。そしてその専門関心である江戸思想の倫理性の通り、ご自分も高い倫理性に基づいて駒場の学生の育成に力を尽くしてこられた。黒住先生の育てた学生のなかに特に東アジアの留学生が少なくない(私の知っている限りオランダとウクライナの大学で教えているかつての学生もいるが)。2001年から黒住先生は自力で『思想史研究』を編集し、若手の研究者や学生に日本思想史関係の研究の場を与えつづけてきた。

駒場にいらしてからのこの22年間、黒住先生は江戸思想の再評価と人材育成に尽力されてきた。十数年前に過労で一度健康を損なわれたこともあった。その期間ずっと先生のそばで先生の奥様と一緒に看病してきた複数の留学生の姿はいまだに忘れられない。その風景は私には、学生の思いはもちろん、先生のご仁徳の現れにこそ見えた。

黒住先生はこの春に駒場を去って行かれる。しかし黒住先生の学恩を受けた学生たちの駒場への思い出のなかには、永遠に黒住先生の暖かさが残るに違いない。駒場にいなくなったそのような学生たちの代わりに、敢えてこの小文を以って彼ら・彼女らの「藤野先生」黒住真先生をお送りしたい。

(超域文化科学専攻/中国語)

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