HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報584号(2016年6月 1日)

教養学部報

第584号 外部公開

社会のなかで哲学の可能性を広げる

梶谷真司

2014年、人文社会系の学部を廃止し、社会的要請の高い分野に転換せよという要請が文科省からが出され、多くの知識人やジャーナリストが一斉に反発。「日本は終わりだ」「大学がダメになる」と大騒ぎになった。文系の学問の社会的意義を強調し、有用か否かで学問の価値を測ろうとする姿勢を批判する声が噴出した。

けれども、文系の学問は役立たず、不要だというのは、私が学生だった30年前から言われていて、以来似たような議論が繰り返されてきた。要するに、教養がずっと大切にされていた(はずの)時代から、大学も社会も、文系の学問の価値を理解する人材を育ててこなかったということだろう。

だから今どきの政財界の人たちにまともな教養も見識もないのだとすれば、それはある意味当然で、その責任は他ならぬ大学にもあるのだ。なのに、また同じことの繰り返し。これは何の茶番なのか。日本はこの間、政財界だけでなく、大学も知識人も変わらなかったのか。

私は「憂国の士」なんかではないので、日本が終わろうと、大学がダメになろうと、はっきり言ってどうでもいい。自分にできることをやるだけ。だから、自らが専門とする哲学については、社会的意義も含めて、その可能性をできる限り試してみたい。駒場「共生のための国際哲学研究センター」(UTCP)は、まさにそういう場だ。

昨年度退職した小林康夫さんがセンター長をしていたCOE時代から、UTCPは国内外の研究者とたえず交流し、いわゆる一般の人たちにも開かれた思考の空間を作ってきた。それは民間の財団、上廣倫理財団の支援を得て研究科・学部付属の組織になってからも受け継がれている。

現在UTCPには、三つの大きなプロジェクトがある──中国哲学の中島隆博さんと石井剛さんがコーディネーターをする「東西哲学の対話的実践」は、今日的なテーマに関して、東西の思想の間を横断しつつ、海外の研究者・学生たちと協同して進められている。国内外のアカデミックなネットワークを生かしたこうした活動は、UTCPのいわば「伝統」で、今でも一般の人からの関心が高い。

他方、新体制以降の大きな特徴は、民間の組織や一般の人たちとの連携・協働である。そうした性格が強いのが、他の二つのプロジェクトである。

科学史・科学哲学の石原孝二さんは「共生のための障害の哲学」というプロジェクトを率いており、統合失調症の人が共同生活する施設「べてるの家」、イタリアのトリエステ精神保健局、その他国内外の様々な当事者団体、支援組織と一緒に活動している。

そしてもう一つ、私がコーディネーターを務めるのが「Philosophy for Everyone(哲学をすべての人に)」というプロジェクトである。これは哲学カフェ、哲学教育などで行われる「対話」を軸とする哲学である。私自身が深く関わっていることなので、もう少し述べておこう。

このプロジェクトの活動は多岐にわたる。特定のテーマ(お金、母親、科学等)で対話イベントをしてきた。最近は外部の人の企画が多く、中高生によるものもある。2013年から駒場祭で哲学カフェをやっている。地域のコミュニティ作り(子育て中のお母さんや高齢者の集まり)のサポートもしている。農村などで地方再生のための話し合いの場づくりに協力している。学校との関わりも増えてきた。2012年から高校生のために哲学サマーキャンプを行い、昨年はいくつかの高校で哲学サークルを作ってもらった。高校で哲学教育の支援をしたり、哲学対話の授業を行っている。また最近はNPO法人「子供の成長と環境を考える会」(代表・白井一郎さん)と連携し、高校の新入生オリエンテーションや通常の授業運営の改善に関わるようになった。

こうした活動では、老若男女を問わず一般の人や民間の団体の人たちと一緒になることが多い。演劇やアート、デザインの世界の人たちとの交流も広がった。そうした人たちに対して、私は哲学を「問い、考え、語り、聞くこと」だと説明している。なかでも重要なのが「問うこと」であるが、「問い」はまず個々人が見つけなければならない。自分自身を離れて、重要な問いなど存在しない。そして問いを他者と共有し、共に考え、互いの話を聞く。同時にそれは互いを認め合うことであり、だからコミュニティ作りにも生かされる。このような「共に生きる」ための哲学は様々なところで必要だし、対話をしている人たちを見ていていつも思うのだが、みんな考えることが好きなのだ。しかもそこでは、私自身にとって哲学的に切実な問いに出会い、研究につながることもある。

学問の可能性を拡げ、その社会的意義を生み出してくれるのは、大学のなかの研究者ではなく、社会のなかで生きている人たちである。だから私は、ただ大学のなかにいて、誰かが学問の意義を見つけてくれるのを待つのではなく、それが生み出される場を探し、作り、その場に居合わせたいと思うのだ。

(超域文化科学/ドイツ語)

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