HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報585号(2016年7月 1日)

教養学部報

第585号 外部公開

理科一類生命科学教育の新たな模索: 「ただ一つ」の新教科書とともに

佐藤直樹

生物・生命に関する教育に対しては、社会的なニーズがますます高まっている。実際、健康、食の安全、環境、人間工学などは、喫緊の社会的課題に直結している。ヒトの身体ばかりでなく、微生物や動植物についての理解は、現代を生きるために不可欠になっているといってもよいだろう。それに対して、東大に入学してくる昨今の理科生には、高校での生物履修者がきわめて少ないようである。さらに、生物に関する学習そのものを不要なものと考えたり、拒絶したりする学生もいる。

上記のような要請をうけて、平成十六年度より理科一類の生命科学が必修化された。それまではそれぞれの教員の裁量に任されていた生命科学の内容を統一するため、東大全体の組織である生命科学ネットワークのイニシアチブのもと、私も含め、生物教員を中心として、黒い表紙の『生命科学』(羊土社)が新たに制作された。これは要領よく要点をまとめたものであるとして、世間の評判の比較的よい本であった。黒い表紙というのは、その後刊行された白い表紙の理科二・三類用教科書と区別するための呼び名である。しかし現実の理科一類の生命科学の授業では、これははなはだ評判が悪かった。分子・細胞レベルのことしか扱われていないにもかかわらず、もっと広い範囲を扱う高校生物の教科書に比べても、初心者に対する導入・説明が少なく、今から見れば、なじみにくいものになっていたようである。

授業について述べると、生物学が好きな学生にとってはある程度満足するものであったと思うが、逆に何が何でも生物など勉強するものかという学生も数%おり、クラスによっては、後者が一般学生を取り込んでしまうこともあった。全体として、暗記事項ばかりだという批判は強かった。これは現代生物学の研究手法や知識体系のあり方にも原因があるのかもしれない。遺伝学的な手法を基本とする場合、ある現象に関わる遺伝子を特定し、遺伝子と遺伝子の関係を図式にして表すのが今の生物学である。もっと時間に余裕があれば、具体的な実験を引用しながら、論理の進め方を紹介するというような授業も可能かもしれないが、限られた時間では、こうした知識を列挙する以外の授業は難しい。そのため実際に生命科学の講義にかかわる教員としては、カリキュラム改革において生命科学の必修をはずし、興味をもつ学生を対象とした余裕のある授業に戻すことまでも提案した。しかし他学部からの強い要請を受けて、一単位科目として必修を続けることになった。

そこで一単位分に対応する教科書を新規に編集することとなった。しかし黒い教科書をさらに短くするわけにはいかない。何か根本的な考え方の変更が必要になった。そこで私が提案したのは、計算演習を主体とした教科書であった。それまでの私の授業経験で、理一の学生が計算によって生物を理解するための問題ならとり組んでくれることに気づいていたからである。当時の生命科学ネットワーク長であった福田先生のご理解をいただき、多くの学部のさまざまな教員に問題作成をお願いした。さらにそれらを教養学部生にわかるように易しくした。教科書としての最低限の説明も付け加え、約一年間の作業の後、この三月はじめ、『演習で学ぶ生命科学』(羊土社)が刊行の運びとなった。

この本の売りは、応援歌さながら「ただ一つ」の教科書ということである。生体物質、細胞、代謝、遺伝情報という基本的項目に加えて、生命のダイナミクスに関わる、フィードバック、恒常性、パターン形成、マクロなダイナミクスとしての生態系・進化を正面から扱っている。従来の生命科学では個別の現象ごとに記述されていたものを、ダイナミクスの種類で分類し、数理的な観点から生命現象を理解する方向性を提示した。さらに、インターネットを使った生命情報の検索や生体分子の立体構造の表示、Rというソフトウェアを用いたグラフ作図やシミュレーションなども加え、パソコン利用の可能性を示した。かなり大部な外国の教科書には類似の趣旨のものがあるが、通常の教科書サイズの和書として類書はない。個別の生物や物質名、特定の生命現象にはできるだけ触れずに、「生命現象というもの」を理解するきっかけを与えることを目指した。

懸念もないわけではない。ふつうの生物学・生命科学の研究者や教員からは「教えるのが難しい」という声もあり、従来の生命科学から脱することに対する反発もありそうである。しかし、理科一類の学生が興味を持ちうる生命科学とは、このようなもの以外にはありえないであろう。すでに授業がスタートしているが、残念ながら、すべての学生が高い関心を示してくれているとはいえない。しかし、単に聞くだけの授業ではなく、自分で手を動かして定量的に理解できる問題を与えられたときに熱心に計算にとり組む学生の姿には、これまでの生命科学の授業にはなかったものを感じる。新たな伝統の旗となるのか、その効果はもう少し時間が経たないとわからない。

(生命環境科学/生物)

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