教養学部報
第585号
「直(じか)に見る」ということ
佐藤 光
先日、京王井の頭線に乗っていたところ、生まれて初めて、席を譲られた。目の前に座っていた若者がおもむろに立ち上がって、「どうぞ」と呼びかけた先には、私しかいなかった。その時まで私は、自分が他人様に席を譲ることはあっても、席を譲られることはない、と固く思い込んでいた。一瞬たじろいだが、私は生まれも育ちも大阪である。土曜日の昼には四チャンネルで吉本新喜劇を見て過ごしたものだ。あのような状況で「どうぞ」と言われれば、乗ってしまう。「いや、これは、どうもすんませんな、あーあ、やれやれ、どっこいしょ。」辻本茂雄が扮する茂造じいさんも顔負けなほどに、と言えば、思い上がるのも大概にせよ、と叱られそうだが、その場に相応しい人物になりきって、ありがたく座らせていただいた。
普段私はべこべこのウォーキングシューズに、だぶだぶのズボン、ずぼっとしたジャンパーに、帽子をかぶり、眼鏡を掛け、花粉症なのでマスクをしている。何者なのかよくわからない出で立ちだが、帽子からはみ出した髪の白さは隠しようがない。おそらく、この髪の白さに、あの心優しき青年は、お年寄りをいたわろう、という気持ちになったのだろう。だが、もし、目の前の怪しい人物が四十六歳(当時)である、という「知識」を持っていたならば、席を譲っただろうか。
仮定の話を続ける。もし、あの心優しき青年が、祖父とともに電車に乗っていたとすれば、どうだろうか。おそらく最初から祖父に席を譲り、孫は立っていたことだろう。あるいは、もし、あのとき私ではなく、カーネル・サンダースのような外国人のお年寄りが吊革に掴まっていたとすれば、どうだろうか。相手が外国人であるという「知識」にとらわれることがなければ、おそらく同じように席を譲ったことだろう。思いやりの心、いたわりの心というものは、家族や国籍や人種という枠を越えて、広がっていく。家族や国籍や人種といった「知識」にとらわれることなく、自分の眼で見て判断することを、柳は「直(じか)に見る」という言葉で表した。「直に見る」ことを可能にするのが、ブレイクの言う「生きとし生けるものはすべて神聖である」という考え方である。
「生きとし生けるものはすべて神聖である」という言葉から、私たちはそれほど強い印象を受けないかもしれない。しかし、ブレイクが生きた十八世紀後半のイギリスでは、この言葉は非常に強い意味を持った。
ドーヴァー海峡をはさんだフランスでは、一七八九年にフランス革命が起こり、身分制が廃止となり、関係当事者が話し合いをして物事を決める市民社会が誕生した。一方、国王と貴族が力を持っていたイギリスは、フランス革命に敵対する姿勢を鮮明にし、同じような革命がイギリス国内で起きないように徹底した取り締まりを行った。秘密警察が設置された。政府に反対する新聞と雑誌は廃刊に追い込まれた。政治的な集会は禁止され、政府を批判する者は反逆罪の容疑で次々と逮捕された。あまり知られていないことかもしれないが、一七九〇年代のイギリスは息の詰まるような検閲の時代だったのである。
このような歴史的な状況の中に「生きとし生けるものはすべて神聖である」という言葉を置き直してみると、異なる意見を認めようとしない政治のあり方に対して、ブレイクが放った抗議の声が聞こえてくる。ブレイクは、神が様々な異なる才能を様々な存在に授けたのだから、それぞれの才能がそれぞれに発揮された時、その才能を通して、神が地上に姿を現すのだ、と考えた。考える自由、表現する自由、意見交換をする自由を奪うことは、ブレイクにとって、神を蔑ろにする行為だった。
イギリスがついにフランスと戦争を始めた時、ブレイクは「国家の力は人を殺すばかりで、人を造ることを知らない」とノートに記した。時の政府を糾弾したこの言葉は、ノートの一頁に留め置かれ、外に出ることはなかった。外に出ていたならば、ブレイクはただでは済まなかったはずである。
ブレイクは、社会を構成する多種多様な個人が、それぞれのやり方で、それぞれの才能を発揮する自由が保証されて初めて、理想的な社会が出現する、と考えた。ブレイクのこのような考えに注目した本格的なブレイク研究は、第二次世界大戦中にイギリスで始まる。先鞭を付けたのは、ユダヤ系ポーランド人のジェイコブ・ブロノフスキーだった。ブロノフスキーは一九二〇年にイギリスに渡り、祖国ポーランドがナチス・ドイツによって侵略されていく様子を目の当たりにしながら、ブレイク研究に取り組んだ。少し気障な言い方をするならば、ブロノフスキーはブレイクにファシズムに対する解毒剤を見た、と言えるかもしれない。ブロノフスキーは『ブレイク─革命の時代の予言者』の中で、次のように述べた。「探求し、問いを発し、異議を唱える精神は、偉大な歴史を持っている。それぞれの社会はその精神に、宗教的、文学的、科学的な形を与えてきた。ブレイクの力の多くは、当時異議を唱える精神が姿を現した二重の形、即ち、合理的、宗教的な形に由来する。異議を唱える精神がどのようにして形成されたにせよ、それが社会を活性化してきた原動力なのである。」
私は、ここに、人文学が持つ社会的意義がよく表れていると思う。人文学は社会から遊離した高尚なお遊びではない。よりよい社会とはどのような社会なのか。少しでも暮らしやすい社会を実現するためには、どのようなルール作りが必要なのか。このような問題を考えるための基礎研究が人文学である。新しい秩序や制度の可能性を想像力によって探究する時、人文学は必然的に現状に対する挑戦というかたちをとる。
大政翼賛会と国家総動員法の時代に、柳は各地を訪れて、それぞれの地域の民藝と方言を大事にすることを訴えた。「民藝の生長にとって望ましい事は、地方色を甦らす事です」と柳は説いた。言語はその地域の自然と歴史と風俗の有機的な結合体であり、標準語と地方語にはそれぞれ果たすべき役割があるとして、標準語によって方言を駆逐することに反対した。朝鮮やアイヌや台湾について、滅ぶべきものは滅べばよい、という議論に与することもなかった。地方色の尊重を唱え続けた柳の活動そのものが、文化的にも社会的にも多様性を認めようとしなかった、当時の日本のあり方に対する挑戦だったといっていい。そして、昭和のファシズムを背景にして柳の仕事をとらえ直した時、柳の言葉は、グローバリゼイションの時代にどのように振る舞うべきか、という問題を考えるための有効な手掛かりを提示するように思われる。
「世界の各国が自国の言葉を捨てて共通語のエスペラントを選ぶとしたら、世界は果たして幸福でしょうか」という柳の問いかけや、「外国に学ぶのはよいが、それが崇拝となり追従となっては、文化の独立はない」という柳の警告には、傾聴に値する真理が含まれている。これらの言葉の後ろにあるのは、ブレイクの「生きとし生けるものはすべて神聖である」という考え方であり、多種多様な存在を多種多様な存在として慈しむ心である。柳はそれを「直に見る」ことによって実践した。どこかに正解があると信じて正解を求め、それを模倣しようとする限り、創造もなければ、自立もない。「直に見る」とは、その領域の権威や常識とされる意見を参考にすることはあっても、鵜呑みにすることなく、日々の暮らしを通して培われた自分自身の価値観に従って、物事を主体的に判断すること、と定義したい。「直に見る」ことは、時として、勘違いを誘発するかもしれないが、間違いを繰り返すことでその精度は鍛えられるというものだ。
私に席を譲ってくれた、あの心優しき青年は、ドアの側に移動して、何事もなかったかのように、スマートフォンをいじっていた。私はその姿を見て、衣食足りて礼節を知る、という言葉を思い出した。座席が一つあって、座りたい人が複数いる時に、その座席をもとにどれだけ多くの利益をあげることができるか、を考えるのが経済の発想である。利益を考えることなく、誰がその座席を最も必要としているだろうか、を考えるのが人文学である。衣食をもたらすのが経済であり、礼節をもたらすのが人文学である。どちらが欠けても、社会は上手く回らない。
このたび第二十八回和辻哲郎文化賞と第十五回島田謹二記念学藝賞を賜った拙著『柳宗悦とウィリアム・ブレイク─環流する「肯定の思想」』(東京大学出版会、二〇一五)は、ブレイクと柳と彼等の周囲にあった人々についての歴史研究ではあるが、異なる存在を受け入れて理解するための想像力とは、どのような力なのだろうか、という問いがその出発点にある。選考委員評でも、授賞式での講評でも、学術的な内容に加えて、拙著がそのような問題意識に裏打ちされていることと、現代社会に対するメッセージを含んでいることを評価していただいた。望外の喜びである。
(超域文化科学/英語)
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