HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報587号(2016年11月 1日)

教養学部報

第587号 外部公開

夏目漱石没後百年によせて

小森陽一

漱石夏目金之助が、家族や弟子たちに見まもられながら、自宅で息を引き取ったのが、百年前の1916年12月9日夕刻。今年2016年は、没後百年となる。

結果として小説家夏目漱石にとって、最後の長篇小説となった『明暗』は、第88回で未完となる。「朝日新聞」に専属の新聞小説作家として入社して、十年目のこと。

漱石は、1916年1月1日から『点頭録』という随筆を「朝日新聞」紙上に連載する。50歳となる節目の年であったためか、「大正五年」という新しい年を意識しながら「自分の過去を観じ」、それが「無」か「有」かと問う。

そしてもし「無」であるなら、自分は「明治の始めから生まれないのと同じやうなもの」と述べている。自分の満年令が明治という元号と同じであることを意識化しながら、読者にも、異なる元号の間で、西暦に転換する計算を暗に促しているのである。

『点頭録』という新年随筆は、二回目から激変する。いかにも新年の挨拶らしい一回目から、打って変わって、四回にわたって「軍国主義」、その後「トライチケ」と題して、やはり四回の連載となっている。「トライチケ」とは、ビスマルクに協力した、ドイツ軍国主義の代表的思想家、ハインリヒ・フォン・トライチュケ(1854〜96)のことである。

「自分は出来る丈天命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けている」という、1月1日の『点頭録』の宣言は、実は「軍国主義」批判を、全面的に展開することであったのだ。1902年の「日英同盟」に基づき、大日本帝国は1914年8月に第一次世界大戦に参戦していた。日本軍は秋にはドイツ東洋艦隊の基地であった青島(チンタオ)を軍事占領し、15年から軍政を開始していた。

この年の1月、大日本帝国政府は「対華二十一カ条要求」を中華民国に提出した。ここには、漱石の死後における、大日本帝国による「十五年戦争」の要因が含まれている。

敵国であるドイツを非難する言説は、戦時ナショナリズムの常套である。その常套を装いながら、漱石は大日本帝国をその中に含めた形での、「軍国主義」批判をしたのだ。

漱石はまず、自分は「欧州大乱といふ複雑極まる混乱した現象」を、ひとくくりにして「軍国主義の発現として考へる」と宣言をする。最早どちらが勝つかといった国家間の勝敗ではなく、「独逸に因つて代表された軍国主義が、多年英仏に於て培養された個人の自由を破壊し去るだろうか」が最大の関心事だと、漱石は言い切っている。

なぜなら「強制徴兵に対する嫌悪の情」を持っていたはずの「自由を愛する」「英国人」が、「強制徴兵案を議会に提出するのみならず」、「百五対四百三の大多数」で通過させてしまったからだ。これは、「独逸が真向に振り翳してゐる軍国主義の勝利」だと漱石は断言する。すなわち、「戦争がまだ片付かないうちに、英国は精神的にもう独逸に負けた」のである。

この「個人の自由」に対する「軍国主義の勝利」という危機意識に基づき、「軍国主義」の「独逸」における歴史的形成過程を明らかにするのが、「トライチケ」と題された後半である。「千八百六十七年ビスマークの力によって成就された北独乙の連合」こそ、「トライチケ」の「理想を現実にしたもの」だからだと漱石は言う。一八六七年とは自らがこの世に生を受けた年にほかならない。自らの生涯をかけて漱石は「軍国主義」と歴史的に対峙する。

「強制徴兵」制に基づく「北独乙の連合」が「普仏戦争」に勝利した1871年に「独乙帝国」が建国され、ヴェルサイユ宮殿でウィルヘルム一世がドイツ皇帝に即位したのだ。この時欧州に入った岩倉遣外使節団は、大日本帝国の国家モデルを「独乙帝国」に置いた。この年大日本帝国の明治天皇は「徴兵の法」を出し、翌年「徴兵令」が出され、「強制徴兵」の国となる。ドイツ批判は、実は、そのまま大日本帝国の来歴にあてはまるのだ。

ここで『明暗』の第五十三、四章が、その意味の深さを主張し始める。夫津田の手術後、結婚前まで育てられていた岡本の叔父の娘継子の見合の席にお延は同席させられる。相手は第一次世界大戦「前後に独乙を引き上げて来た」三好という男。仲人役の吉川夫人は自分の夫(津田の上司)や岡本が「外国から帰っていらし」たのはいつ頃かと問う。

岡本が「さよう西暦……」と言い淀むと、吉川夫人はすかさず「普仏戦争時分?」とたたみかける。元号が明治から大正に変わったための、一瞬の間があいたからだ。そして「エドワード七世の戴冠式の時」という明確な記憶が確認される。この1902年に「日英同盟」が結ばれた。

大日本帝国が「普仏戦争」のときに「強制徴兵」制を導入し、日清戦争後「日英同盟」を結ぶことで日露戦争に突入し、帝国主義戦争の担い手となる全歴史過程が凝縮された場面なのである。ここに没後百年に漱石を読み直すことの、一つの大切な意味を私は見い出している。

(言語情報科学/国文・漢文学)
 

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