HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報588号(2016年12月 6日)

教養学部報

第588号 外部公開

駒場が育てたノーベル賞

毛利秀雄

2016年のノーベル生理学・医学賞は、教養学部後期課程・基礎科学科(現在は統合自然科学科に改組)出身の現東京工業大学榮譽教授で、基礎生物学研究所名誉教授の大隅良典博士に授与されることになりました。生理学・医学賞では初めての東大出身者の受賞であり、本学ならびに本学部にとってまことに喜ばしいことです。受賞対象は1990年代に彼が本学部および基礎生物学研究所から出した「オートファジー」に関する論文です。「オートファジー」はいわば細胞の中でのゴミ(?)収集・処理、リサイクルともいえましょう。人間の生活におけるようにこのような過程は生物が生きていくためにも欠かせません。これに関与する遺伝子を一挙に決めて、その本質を明らかにしたすばらしい研究です。それ故にいろいろな病気の治療に、今までとは違った観点からのアプローチができる可能性が出てきました。しかし彼の行ったのはマウスなどよく使われるモデル動物ではない「酵母」での基礎研究です。しかも全部わが国で行われています。世界のだれもが認める彼(および彼の研究室)の独壇場で、数少ない単独受賞となりました。

大隅さんは、父は工学部の教授、祖父と兄は歴史学者という家に生まれ、子どもの頃は昆虫少年でした。高校では化学部で大学でも東京大学の理学部の化学を目指しますが、当時の分子生物学の進歩に興味を抱き、また前年度より募集が始まったばかりの駒場・基礎科学科に魅力を感じて、進振りでは同科に進学を決めました。教養学部には一般教育担当だけでなく、最初からシニアの教養学科がありましたが、理科系といえるのは科学史・科学哲学だけでした。そこで数学から生物、地学まで理科系を網羅して基礎科学科が作られ、本郷の学部では縦割りでなかなかできなかった境界領域の研究を耕すような人材の育成に努めました。新設学科はどこでもそうでしたが、基礎科学科も五期ぐらいまでは「神代」と呼ばれ、秀才が集まりました。じっさい一期生は物理の公務員上級職の国家試験で上位を独占したほどでした。大隅さんはその二期生、基礎科学科の上にできた大学院である相関理化学課程では一期生です。ここでそれまでとは違った広い視野を持つことができたことは間違いないでしょう。

大学院では今堀和友先生の研究室に入ります。先生は第二次大戦後の優れた生化学者の一人で化学教室に属しておられましたが、基礎科学科の発足とともに生物系の担当となりました。奥様の萬里子さんも同じ研究室出身です。丁度駒場にも東大紛争の嵐が吹き荒れ、院生たちもなかなか落ち着いて研究ができない時代でした。大隅さんは博士課程の最後の二年を、直接指導を受けていた先生が移られた京都大学の生物物理学教室で過ごしました。しかし学位修得までにいたらず、農学部に移られていた今堀先生のところで一九七四年に理学博士を取得されました。その後、抗体の構造を決めたノーベル生理・医学賞のエーデルマンのところに3年間留学しました。そして東京大学理学部植物学教室の安楽泰弘教授の助手に採用されて帰国し、講師の二年を含めここで十年余を過ごされました。その間それまでほとんど顧みられていなかった酵母の液胞に注目しました。総じてこれらの期間は論文も少なく、低迷期というか、彼にとっては模索の時だったのでしょう。何が大事かを熟慮していたのかもしれません。

1988年、大隅さんは教養学部の独立した立場の助教授(現准教授)として生物学教室に赴任します。十数年ぶりの駒場です。一〜二年生の教養教育を担う駒場の教養学部では、明治以来講座制を保ってきた本郷の各学部と比べると予算面では大分隔たりがありました。そこで生物学教室では私たちの先輩方のお蔭で、高価な備品などは共同で購入して使ったり、新任の人には特別の配慮をしたりしていました。また教授や助教授だけでなく、助手(現助教)も、独立した立場で研究していました。つまり、授業などのノルマはあるものの、「自分の好きなことができる自由な雰囲気の教室」だったのです。ここで初めて自身の研究室を持った大隅さんは、「他人のやらない研究テーマ」として、タンパク質の分解過程を酵母の液胞で調べることにしました。そして着任した年に、光学顕微鏡の下における「オートファジー」現象の観察に世界で初めて成功します。現在の三号館の実に小さな研究室でのことで、彼は43歳でした。引退する広島カープのベテラン黒田投手が41歳です。生物系でも気の利いた人たちは20代、30代でしかるべき業績を上げているのが普通です。その後新設の15号館に移り大学院生もつくようになります。しかし上記の結果が論文として出るのには4年もかかりました。その間に電子顕微鏡での観察や「オートファジー」に関与する遺伝子の同定が進みました。彼の研究の根本のところが、駒場での八年間に行われたことになります。

彼の仕事は、徐々に国内外に知られていきますが、当時はまだ今日のようにその重要性は認められていませんでした。研究をさらに発展させるためには人的・物的なパワーを必要としました。その場を提供したのが、愛知県岡崎市にある岡崎国立共同研究機構(現自然科学研究機構)・基礎生物学研究所でした。名前の通り生物学における第一線の基礎研究を行っており、国内外の大学・研究所の人たちが共同利用できる研究所で、大学院生(総合研究大学院大学に所属)もいます。ここには同じ機構に属する化学の分子科学研究所と医学の生理学研究所もあります。51歳で教授に昇進した遅咲きの大隅さんには、当時の駒場の環境と比べると十分なスペースとスタッフが用意されました(現状では条件がより厳しくなっているようです)。スタッフの中には動・植物を扱う人や医者もいました。こうして酵母で見つかった遺伝子群が生物全般にみられることが明らかになり、「オートファジー」は一躍脚光を浴びることになりました。大隅さんは同研究所で13年を過ごして名誉教授となり、さらに研究をつづけるため2009年に現在の東京工業大学に移っています。

顕微鏡を眺めることが今も大好きな大隅さんの業績は、彼が面白いと思い定めた基礎研究をこつこつと積み上げてきた結果であり、それがたまたまアルツハイマーやがんの治療に役に立つかもしれない可能性が高まってきたもので、最近もてはやされているような「社会にすぐ役に立つ」研究とは程遠いものです。逆に言えば基礎研究が役に立つか立たないかは何十年も経たなければ分かりません。彼の仕事は、1908年のノーベル生理学・医学賞を受賞したもともと動物学者であったメチニコフが、顕微鏡下でヒトデの遊走細胞が異物を食べるさまを観察し、後に白血球も同様の食細胞作用のあることから免疫のしくみの一端を明らかにした業績に匹敵するものといえましょう。

大隅さんを学生時代から見知っており、彼が東大教養学部ならびに基礎生物学研究所に赴任した時、たまたまそれぞれ学部長、所長として彼を迎えた私にとって、今回のノーベル賞受賞はまことに感慨深いものがあります。恩師の今堀先生は受賞の朗報を聞かれることなく、この5月に亡くなられました。誠に残念なことです。

(元教養学部長・元基礎生物学研究所長)
 

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