HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報589号(2017年1月 6日)

教養学部報

第589号 外部公開

<送る言葉> ─代田智明先生を送る─

小森陽一

代田智明先生を、私は常に「代田さん」と呼んできた。だから此所でもただ「代田さん」と書くだけで、「先生」は付けないことにする。その方が私に取って自然だからである。私は「駒場」という、固有の歴史を背負った自分たちの職場の地名の呼称を、自明な身内の言葉として使用する集団の中で、代田さんの記憶を呼び起こすごとに、すぐ「同志」と言いたくなる。筆を執っても心持は同じ事だが、余計な誤解を招くやも知れず、代田さんと呼んでおく。

高校紛争世代として二歳年長の代田さんは、酒席はもとより何か緊迫した状態になると「小森」と呼び捨てにした。一九六九年の高三と高一の間には、大人と子ども以上の文化的政治的落差があった。だから私も「小森」と言われたときは、必ず身と心を引きしめることになった。

代田さんと知己になる最初の契機は、駒場寮廃寮問題の渦中であった。全国の国立大学解体への国家統制の始まりの一撃が「教養課程の廃止」であった。「駒場」はそれに抵抗し「リベラルアーツ」を守るために、大学院大学として自立することで団結した。そのためには学内寮としての駒場寮を廃寮にすることが、どうも取引き条件らしかったと私は思い込んでいる。

学内寮は学生運動の拠点にほかならない。新寮建設を機に学外に出すというやり方は、学生時代の北海道大学で経験済みであった。学生たちのそうした方向への拒否反応は良く理解できた。だから教授会でも学生との合意をつくることを、偶然、一緒に学生委員であった代田さんと主張し、その言葉を発してしまったために、深夜まで寮で議論し、あけ渡しの日は学生たちのデモの中に二人はいた。

こうした中で、中国近代文学研究者としての代田さんは私に「六・四天安門事件後」の中国の知識人とのつながりをつくってくださった。「日中知の共同体」という運動にもかかわることになった。

二〇〇六年一〇月一〇日という、一二五年前に魯迅が誕生した日と、七〇年前に逝去した日との間に刊行された、『魯迅を読み解く─謎と不思議の小説10篇』(東京大学出版会)で、何度か引用されている、『反抗絶望』の著者汪睴氏とも、代田さんのおかげで出会うことができ、今も年一回のシンポジウムを開催して、交流する関係が築かれている。

代田さんが魯迅の文学テクストから読み取った、「プレモダンからポストモダンへと駆け抜けていった」「生き方」には、代田さん自身の姿が重なってくる。

行政能力皆無の私と違い、代田さんは地域文化研究科専攻長をしっかりとつとめられた。
二〇〇六年一二月九日、加藤周一さんの講演会を駒場で開催したとき、一九四七年教育基本法の改悪が、第一次安倍晋三政権の下で緊迫していたため、私は国会前に行かねばならず、すべてを代田さんにお願いした。「駒場」に戻ったとき、赤ワインを飲みながら加藤さんと対等に議論する学生たちの姿を、代田さんは誇らしげに私に指し示してくれた。代田さんは学生と共に生き抜く「駒場」の教師だ。だから「同志」と言いたくなる。

(言語情報科学/国文・漢文)

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